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【専攻】は、自主的に学んでいることも含めていいのか。

「専攻」は、何ですかと聞かれれば大学生は、一体なんと答えるだろうか。多くの場合、「ゼミ」で議論したり、教授に教えを乞うことことによって享受できる分野を指すのだろうか。

専攻を幅広く意味を取れば、一つのことを専門を研究することであるから、専攻という単語の数意識はおそらく一つなのだろう。つまり、専攻を複数持つことは少し奇妙に思えるのかもしれない。

しかしだからといって、ゼミで学んでいる内容を自動的に【専攻】とするのはいかがなものだろう。なぜなら、ゼミで学んでいる以上に、深く、密に、広く学んでいる分野があるのならば、それこそ【専攻】になるのではないかと考え及んだためだ。

というか、専攻を複数持っていたっていいじゃないか、とさえ惟う。

ゼミで自然科学のことを研究していても、自分の個人的な興味の延長で、ゼミと同じかそれ以上に、人文科学で学んでいることがあるのだとしたら、それはどちらも【専攻】ではないのか。

一つのことをとことん理解していることもいいが、色んな分野について深遠な理解があるのってなんだかカッコいい気がしてしまう。



解析学を専攻しているけど、英語学も同じくらい興味があって、学んでいる。

物理学のある分野を専攻しているけど、社会数理学も結構学んでいる。

経営学を勉強しているが、哲学の存在論的展開や現象学について、深い理解がある。

フランス文学を専攻しているが、観光人類学も学んでいる。


一見関係の無いように見える分野について、学際的に学ぶ姿勢は、その好奇心の深さを垣間見ることが出来るような気がして、頭が上がらない。

大学の学費はバカみたいに高い。正直、専攻の三つや四つくらい理解しないと割に合わない気さえしてしまうほどだ。ウン百万という数字と、単位を取るだけ、思い出を残すだけの大学生活は、あまりにも釣り合わないのは気のせいか・・・?

どうせなら、これだけは教授にも負けないくらい詳しい分野を作るくらいの勢いで駆け抜けるくらいが、ちょうどよいのかもしれない。そして私は、まさにこの勢いに駆られて、艱難辛苦、暗礁に乗り上げそうになりながら、ああでもない、こうでもないと苦しみながら、学問を学んでいる。学問は本当に難しい。

大学生の特権は、ニーチェのツラトゥストゥラの正体について悶々としながら、第二外国語の時制の難しさに喘ぎ、金が無いなかで、人生に意味がないのではないかと、永遠のような不安に駆られながら、この世界の果てに思いを巡らせ、言葉が世界を形作るのか、言葉は思考の一形態に過ぎないかに思いを馳せることが出来ることだろう。

大学生は一番、ある意味で年を取ることが出来る期間だ。




今日も大学生は惟っている。




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