「人」という字は~よく見たら片方が楽して出来ています
人という字はなんとやらという言葉がある。人間という存在を美化するにはもってこいの話だろう。
だが、私は支え合っているという風にはとても思えない。「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」でお馴染み、比企谷八幡はこのように「人」を捉える。
☆人~よく見たら片方楽してる文化祭~とか〔中略〕いや、人という字は人と人とが支えあって、とか言ってますけど、片方寄りかかってんじゃないっすか。誰か犠牲になることを容認しているのが『人』って概念だと思うんですよね。だから、この文化祭に、文実に、ふさわしいんじゃないかと」
「俺とか超犠牲でしょ。アホみたいに仕事させられてるし、ていうか人の仕事押し付けられてるし。それともこれが委員長の言うところの『ともに助け合う』ってことなんですかね。助け合ったことがないんで、俺はよく知らないですけど(渡航、)
これを中学生の時に読んだ私は、圧倒的な納得感を得て、以来人間という生物をこのように捉えることが多くなっていった。もちろん、これだけが人間の性質ではないってことは、よ~く分かっているとも。
だというのに、やはり誰かが犠牲になることを容認するということを、「人」という漢字が表していることは、大概の場合成立しているのではないかと思っている私がいる。
そうだとも。人が支え合っていると言う割には、どうして一方が一方によっかかっている形の方が適当に映るのか。それとも支え合っているのは本当で、支え合っているということが、一方的に他人を犠牲にするということを暗喩しているのかな。人間における支え合いは、一方的な搾取ということか。それなら納得がいく。
W.ステインは、世界システム論という説を提唱した。この世は、中心、半辺境、辺境という風に階層が分かれていて、富の蓄積度合いがそれぞれの階層によって異なるというもの。確かにこのシステムが機能していれば、「人」という字が”支え合っている”ことが分かるな・・・?
人間を善だとも、悪だとも思わない。
その状況に合わせて変化していくという性質を、動物や植物と変わらず、人間は持ち合わせているのだと、私は思う。
ただ今の社会では、”支え合い”という搾取が生じているだけかもしれない。
でも人は大抵、他の人を搾取している。そうでないという人も、自分が持っているものが、どのように出来たかをしらない。それがどのように他人を搾取して出来たかを知らない。自分の周りしか見てないんだよ。
「人」という字が表すものは、人間の恒常的な性質を表すものか。この現代社会の人間の特徴を表すものか。
私は前者に賛成である。
分業などと言うが、職業に貴賤は無いというが、それはどこか「犠牲」というニュアンスを帯びている。故に、支え合いは分業、つまり誰かの犠牲の基になりたつ環境のことであろう。これが、人間であろう。異論は全然認める。
だが、私は以上のことを「悪い」などとは言わない。私の人生は、誰かの犠牲の上に成り立っているかもしれない。自分という他人の犠牲の上に成り立っているかもしれないしね。
反対に私が誰かの犠牲になっているかもしれない。じゃあ、支え合いはお互いが犠牲になり合うってことか。でも、犠牲の度合いはみんないっしょじゃない。それはあり得ない。マルクス主義を受け入れなら別だけれど。
やはり、人間は「人」である。
「誰か犠牲になることを容認しているのが『人』って概念」なんだろう。
と
今日も大学生は惟っている。
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