もし人間が他人に興味を持たなくなったら、「観光」は無くなるかもね。
観光をする理由は、自らの慰労や、思い出作りや、日常から逃避や、これら以外にも種々の理由が挙げられる。
だが、その本質として、どこかに「他人」という存在がいるような気がしてならないと私は思ってしまう。
例えば、他人に興味を持たなくなるという状況を、自分の周りにいる人間をほとんど認識できなくなるというアナロジーで考えてみよう。
一緒に行く人も碌にいない。
ましてや観光の計画について話し合う人も碌にいない。
案内してくれる人もいない。
観光の感想を零すひともいない。
観光について書いても、読んでくれるひともいない。
観光で撮った写真を見せるひともいなければ、その写真に対する他者からの反応もない。
自分の帰りをまつ他者もいない。
全てではなくとも、ある程度この条件が揃ってしまったのなら、多くの人が観光行動を成さなくなると思うのは私だけだろうか。
大抵の人間は、観光に「カメラ」か「スマホ内臓のカメラ」を使う。それは、自分が観光をしたという証を、少しでも残したいからだ。中には、自分ではない他者に見せようと、なんと!わざわざ加工まで施す者もいるとか・・・。
観光をすると、誰かに語る人もいる。自分が観光をしたのだとという情報を誰かと共有し、その証を残したいからだろうか。
観光は、「他者に明かし、共有して、より明確に残り、見えるもの」
だと私は思う。
なぜなら、観光という商品は、消減性が高く、明確な「形」をそのままにしておくことが出来るものではないからだ。
それは大抵、「思い出」というなんとも曖昧模糊ですぐに雲散霧消してしまうような、夢幻泡沫なもの。
しかし、思い出という形でしか残せないからこそ、よりそれに縋りたくなるのだろう。そこに「観光」というものが、より明確に立ち現れてくるのだと私は思う。
そして、その「思い出」という観光旅行の残骸を、「他者」に示し、共有し、教えることによることで、観光は幾分かその形を保持するのだろう。「他者」はこの意味で、観光にとって、大きな意味をもつ存在なのではないだろうか。
観光はつくづく、他者ありき、他者の存在への意識、外面の重要性、周りから最終的にどう反応してもらえるか、という要素を含むものだと、痛感せざるを得ない。
作れば売れるというセイの法則のような考えが通じず、まずどう消費者に魅せるか、買ってもらうかが、現代において重要であるように
観光行動をするということ以上に、観光をする前の段階でもう既に、自分の観光を他者にどのように共有しようかと意識してしまう。
それが、現代の、そしてこれからの、ある意味での「観光の本質」なのだろう
と
今日も大学生は惟っている。