矛盾して何が悪い
一貫したヴィジョン。明確な目標。初志貫徹。揺るぎない意思。変え難い希求。幹のように堅固な軸。
そういったものを持ち合わせ続けることが難しくはないのか、と感じる今日この頃です。いやそれ以上に、そもそも一貫して意見を持ち付けるというか、感情が安定していることというか、兎にも角にも、「安定」という文字からは、とても程遠いというのが、最近の感想だ。(ん? うん。)
これは独断と偏見以外のナニモノでも無いが、一部の人間(もしくは人間そのもの)は、矛盾、つまり安定して不安定な生き物に違いないだろうと思っている。
人間は、自分はアンビバレントな感情を持っているくせに、他人に対しては、何故か往々にして一つのキャラクターを演じるように強制しているように感じてしまう。
別にいいじゃないか。他人が矛盾していたって。そして、自分がどれほど矛盾していたって。
人を殺したくなる時があったって、別に不自然ではない。それと同様に、人を殺したいと思わない時があることは、自然なことだ。人間の全てが憎くなったっていいじゃないか。この世界の万事が嫌になったっていいじゃないか。どうでもいいと思ったっていいではないか。
他人のことを助けたいと思うように、他人に興味が無くたっていいじゃないか。一貫性? ナニソレー?
人間に、一貫性を期待しない。(一貫性が無いと言う一貫性があることはもちろん無視ね)
人間は、矛盾する。矛盾するからこその、人間でさえあるレベル。
安定した心情と信条を持つことが出来るのは、(わたしから見れば)異常だ。異常にしか見えない。どうして、他の視点を切り捨てることが出来るのか。私がそう思うという意見を、どうして信じることが出来るのか。
その(自分が抱いている)意見に対して、何ら疑問を抱かないのか?矛盾しないのか、自分自身に対して。不思議だ。自分が自分であるということくらい不安定なのに。本当に不思議だ。
矛盾している。
そうだとは思ったが、やはりそうではないと思う。もしくは、弁証法的に新たな意見に憑りつかれることもある。暗礁に乗り上げながら、私はどの意見を信じるべきか、暗中模索している最中。
矛盾しているなかで、何が私なのかも分からなくなる。何を信じているのが、「私」なのか。何を信じていないのが「私」でないのか。そもそも、何も信じていないのが「私」なのか。其の場合、「私」とは誰なのか?
延々と考えてる。
矛盾しているのが、やはり「私」なのだろうか。それでいいのだろうか。
そして苦しんで矛盾の中に生きる。そして、今日もひしゃげた笑顔でこう言うの
「ありがとう~、ぶっ殺すね」
と
今日も大学生は惟っている。
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