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旅をしようとする時点で、最早メソポタミアには辿りつけない。

ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」という本を繙いている時でした。ここ最近は、典型的な警告の土台に立脚している、マキャーネルやブーアスティンに影響されて、観光対象の夢幻泡沫な特徴に焦点を当てて記事を書いていたところ。

しかしながら、私はそもそも前近代的な「旅」や「旅行」すらも、あくまで大衆観光という存在との比較の上で、圧倒的に、「生き生きとしている」「本物」「純粋」という要素が強いのであって、それが真に「自然」「純粋」と言えるのかと、疑問に思うようになった。日曜日の昼時だった。

世界というものを見てみると、

そこにはあら不思議、人間にとって都合の良いように作り上げられたものばかり。建物、共同体、社会、遊び、労働、都市、電車、スマホ。これはいつの時代にも変わらない。

この世界に蔓延っているもののほとんどが、人間様に合うように出来ているもの。

紀元前8000年ごろの三日月肥沃地帯で、その生存を許されたのも、人間の都合に合うように育てられた植物や動物ばかり。

育てやすいもの、管理が楽なもの、危害を与えないもの、静穏なもの、繁殖活動が容易なもの、生存条件に適したもの、とにかく人間に都合のよいもの。

本格的な食糧生産が開始してから、7300年後~9700年後辺りで生じた「旅」「旅行」が可能になったのは何故か?それは人間が余暇活動に従事することが可能になったからである。

しかしながら、もうその頃の地球は、今ほどではないけれども、言ってしまえば「疑似イベント」のようなものだ。或いは、さらにその先にあるもの。

人間が楽しく、楽に生活できる環境・状況というものは、既にその時点で人間用に作り変えられたものである。野生そのままではなく、品種改良されてしまったトウモロコシのように。動物園にいる動物のように。完全に安全であるとも言い切ることは出来ないかもしれないが、人間が本格的に自然の改変を開始し始めたときと比べれば、違いは相当なものではないだろうか。

大衆観光と比較すれば、確かに「本物らしい」のかもしれないが、その「本物らしい」という感覚も、印象も、おそらく人間向けに作り変えられた世界でのこと。そこから生じている人間向けの快。

さぁ、「旅」をしようかと、生理的・社会的欲求とは異なる段階にあるような「旅」「旅行」「移動」を求める時点で、それはすでに人間特有の作り上げられた欲求に基づく動機なのではないだろうか。

真に

かはどうかは分からないが、「冒険(adveture)」的な旅をしようと思っても、もうそこにメソポタミアは存在していない。人間が新大陸に渡る前の、絶滅してしまった動物を見る事もない。栽培される前の、野生種を見る事も、家畜化される前の原種を目にすることもない。

前近代の「旅」は、あくまで大衆観光という近代での現象が前提。

屁理屈のように見えるかもしれないが

その前近代の「旅」さえも、もうすでに、「疑似イベント」の一種なのではないだろうか。観光対象や、お土産や、風景や、祭りや、旅館や、そういった個々のものではなく、空間そのものとして、「疑似」的な存在であると考えてしまった。

観光をしよう

それって、疑似イベント。消費コンテンツと同じだよね?

旅をしよう

それって、空間そのものが、人間様向けに作り変えられたものだよね?

じゃあ、どうしよう。

まさか。どうもできない。我々人間がいる時点で、この地球上のあらゆるものは、人間がいなかった時と大分違う。あるとしても、「演出をしていないという演出」。

人間が存在する限りは、おおよそすべてのものは、人間向けのもの。

未知の探求、日常からの解放だなんだ言っているが、人間は終局、人間という枠組みでしか満足に生きることが出来ないのだろうよ。

それがいやなら、タイムスリップでもしてみればいいさ。

ま、抽斗を覗いてみても、そんなものありはしないけれども・・・。




今日も大学生は惟っている。



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