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あなたの日常が、今日も誰かを助けてる

朝の通勤中。いつもの最寄りの駅で降りる。会社へ向かう途中だった。
信号待ちのタイミングでメッセージが届く。iPhoneを開き、メッセージを読む。信号が青に変わった。そのメッセージを読んだ後、すぐには動けなかった。何人もの人が、横を通り過ぎて行くが、そのまま立ち尽くしてしまう。

伝わらなさと向き合う日々

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「伝わらないな」と思ってしまうタイミングが続いていた。
コミュニケーションは当然双方向で行われるものだ。僕の伝え方が下手な部分もあるし「分かってくれない」と思い込むのは幼過ぎる。
そもそも「新しい事」をやろうとする以上、全員からの理解を得られるはずもない。言葉を尽くせば、理解は深まるかもしれないが、様々な事象が重なり、少し疲れていた。

意志を持ち、仕事をしている」「アウトプットに魂が籠っている」と評価を時折受ける。
仕事上での「愛情」「信念」「なぜやるのか?」は大事にしているタイプだと自分でも思う。ただ、その部分が必ずしもプラスに働くとは限らない。

理想が高くなってしまったり、現実との折り合いに悩んでしまう事も多い。
また「助けて欲しい」と言われ協力するも、立ち消えになるケースも当時はあった。懸命に取り組めば取り組むほど、空回りしてしまう感覚が続く。

僕がアサインされる仕事は、社内でも未開拓領域が多い。新規事業領域、サービス開発、メディア運用etc。

好奇心が強く、情報収集にも積極的なので、社内では「よく分からないけど、色々情報を知っている」ポジションな気がする。
ただ、社外のノウハウをそのまま社内で汎用させられる訳でもなく、上手くカスタマイズする必要があり、そのチューニングが出来ずにいた。
加えて、同じ指向性を持つ同僚が会社を離れるタイミングも重なった。

「もっと良く出来る」と思う気持ちが強かっただけに「無理なんじゃないか」と感じると急に自分が惨めになった。

伝わらないな」は「分かってくれない」になり「助けてくれない」と思い込みやすい。
いつもは普通に出来ている事がやたら億劫に感じ始め、自分の無力さが情けないし、悔しかった。
自分が懸命に取り組んでいる物事について意味がないんじゃないか?と感じてしまう日も続く。

TwitterのDMが届いたのはそんなタイミングだった。

些細な一言に助けられる

せっちん丸さん蒲田jpg

Twitterで何度かやり取りしていたせっちん丸さんから、DMをいただいた。
実際にせっちん丸さんとお会いした事はないのだが、noteの印象から優しい方なんだろうな~と思っている。

銭湯に複数のメンバーで一緒に行こうというお誘いだった。
お誘いは非常に嬉しく、行きたかったのだが、調整が難しかったため諦めた。結婚や引っ越しによる生活環境の変化もあり、以前より外出を控えるようになった事もある。また、仕事もそれなりに抱えていた状況だった。

失礼にならないようにメッセージを返し、会社へ向かう。
信号待ちのタイミングで返信メッセージが届く。

せっちん丸さんjpg

無駄に力んでいた肩の力が抜けた。
自分を応援してくれる人がいたのかこの時仕事や生活に意味を感じた
僕はせっちん丸さんの一言に助けられたのだ。

せっちん丸さんはおそらく気兼ねなくメッセージを送ってくれたと思う。
当然ながら自分が現在進行形で、大変な状況も知らない。

このタイミングで優しいメッセージをもらい、本当に嬉しかった。
そのまま、ぼーっとしてしまい言葉が身に染みた。
本当に有難く思ったし、感謝を伝えたいと思った。

そして、なんとなく、そのままタイムラインを遡ると、もう一つのtweetが目に留まった。

自分の些細な行動が誰かの役に立っている


tsuyoshiさんとは一度しかお会いしたことがないが、自分はよくtsuyoshiさんのSNSを拝見していた。柔和な雰囲気とデザイナーのためにイベントを主催していたり、noteやTwitterでも自分の経験を積極的にシェアしており、その精力さに刺激を受けていた。

僕が今回SNSでシェアしたのは、tsuyoshiさんがのnoteだ。
最後に新しい場所で挑戦する旨が書かれており、門出を応援したかった。

僕は普段から勉強になったコンテンツをよくSNSでシェアをする。
特に深い意味はなく、自分の備忘録的な側面もある。その僕の些細な日常にtsuyoshiさんは触発を受けている、と言ってくれた
なんというか、自分の些細な活動がtsuyoshiさんの活動に(わずかながらでも)影響があった事を嬉しく思った。

もちろん、お世辞で言ってくれた可能性もあるが、仮にお世辞だったとしても僕は嬉しかったのだ。
そして、tsuyoshiさんのコンテンツ発信やイベントは多くのデザイナーさんの力になっていると思う。SNS上でのタイムラインを見る度に凄いなあと感じている。

そこで、ふと、気づく。

僕らは誰もが助けられてもいるし、無自覚に誰かを助けているのかもしれない、と。

誰もが助けられながら、誰かを助けている

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僕は、せっちん丸さんのメッセージに助けられ、(傲慢ながら)tsuyoshiさんの行動を応援する側面があったかもしれない。
そして、そのtsuyoshiさんの行動がその先の誰かの助けになっているといいな、と思う。

ただ、この循環は日常生活で誰もが営んでいる事じゃないだろうか

例えば、仕事で忙しい時に誰かに手伝ってもらう形の「助けられ方」もあるが、その仕事は遠くの誰かを「助けてもいる」のだ。

心が弱っている時に、気軽に優しく声を掛けられる事は本人の救いになる。しかし、声を掛けた本人は自覚は特にないだろう。そして、助けられた人間が帰りに、気晴らしに温かい飲み物を買ったとして、「消費」の形で遠くの生産者を「助けている」と考えるのは大げさだろうか。

この社会で生きる事は「助ける」「助けられる」のゆるやかな依存関係なのかもしれない
誰かの日常が、この世の誰かを助けているのだ

他者と関わるのは、時に億劫さも感じるし、面倒だな、1人になりたい時もある。
しかし、人間は1人で生きていけない。
この仕組みはひょっとして、僕たちがゆるやかに繋がり合うために用意されているんじゃないだろうか。

誰もが助けられながら、誰かを助けている
自分の知っているところで、そして知らないところで。

普段生活していると「助ける」は少し大げさに感じるかもしれないが、些細な日常が、遠くの誰かを「助けている」可能性はあるのだ。きっと。
そして、それは誰もが生きている事に意味がある証明なんじゃないだろうか。

時折、分かりやすくその「助ける番」が自分に巡って来るタイミングもある。その際に「助けられる人間」でありたいし、そう願う人が増えてくれると世の中は、もっと優しくなれる気がする。

↓Twitterもやってます。


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