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らせんの映像祭で『音の映画-OurSounds』

教科書を点字に翻訳していた人がいる。義務教育で選択される書籍の内容を点字に置き換える。文字だけではなく挿絵も指がそのイメージを読めるように点に変換して打つ。紙の上に1ミリ程の凸凹を作ることで書かれた内容を目の見えない生徒に届ける。間違えたときは消しゴムが使えないのでその点を一つずつ平らに凹ませる姿を横で眺めた。

昨夜、三浦半島の逗子で一本の映画を観た。しかしその映画は映像がなく、音声だけで作られていた。『音の映画-OurSounds』と名付けられたその作品は日本語学校に通う生徒とその先生が試行錯誤しながらみんなで音楽を作る過程をドキュメンタリーとして録音したものだ。友人のTwitter投稿を見て上映を知り、慌てて駆けつけた。大昔に一度使ったきりのpiatixというチケットサイトにログインするのに三十分以上かかり諦めそうになったことはこの話とは一切関係ない。

会場へ入ると、適度な間隔に点在させた椅子がある。しかしその方角は必ずしも一方へ向いているわけではなさそうだった。そして、スクリーンは無かった。これには少し驚いた。いくら「音の映画です」と言ってもスクリーンはあるのだろう、映像は映らなくても字幕や何かの光とか、エンドロールとかはあると思っていたからだ。ところがスクリーンすらないではないか。映画という漢字によれば映像や絵を投影する画面が必要ではないのか。それ無くして果たして映画と言えるのか。そんな疑問が頭をよぎったが、開場から上映スタートまでが僅かしかなく、考えを巡らせる余裕もないまま映画は始まった。

(以降一部ネタバレあります)

観客は暗くなった会場でどこに顔を向けるべきか分からないまま天井や壁、床などそれぞれの思う方向へ顔を向けている。やがて音が鳴り始める。何やら随分と悪い音質で小さな片言の日本語が聞こえる。ほとんど何を言っているか聞き取れないその声に比べて随分と大きな声が続く。そちらははっきりとした日本語でどうやらzoomか何かでオンライン通話を行っているらしいことが想像される。しばらくすると音質が変わったことで場面転換を知る。オンラインだったやりとりが直に会って会話をしている澄んだ音になる。場所は会議室のような室内や飲食店の店内と思われる場所や神社の境内、録音スタジオへと移る。しかし、その想像が正解なのかは映像がないのでこちらには分からない。ただ聞こえてくる音、油性ペンで紙の上に何かを走り書きする音や、小鳥の鳴く声、背後を通過する何か、楽器やテーブルを叩いているらしい音。正しいかどうかも分からないその一つ一つの音を自分なりに聴き分け、想像していく。頭の中にイメージを広げる。そうかスクリーンの白幕を超えて自分の脳内に映像を投影しているのか。そのデータ元がこの映画の音なんだ。この行為はある意味でスクリーンという制限、大きさに限界のある規格を取っ払い、脳内の仮想空間いっぱいに広がる巨大な画面を与えてくれたのかもしれない。


話はそれるが、天才だと思う映画監督の一人にネメス・ラースロー監督がいる。熟達した映像作家がそうであるように彼は映像に映さないことでより多くを観せる監督だ。例えば彼の『サウルの息子』では観客はとても残酷なことが行われている場面の全てを目にすることはない。見るのはその舞台となった場所の一角で、それも人々の間や背後、物陰から垣間見る。情報を抑制されることでより観客が画面の端々まで眼を凝らし、耳を開き起きている事柄を把握しようと務めるように仕向ける。その結果、画面内では起きていないかもしれないことまでも想像を膨らませる。(*町山智浩さんがラジオ『たまむすび』等でこの映画について詳しく語っているので興味ある方は検索してみて下さい。)
彼のもう一つの作品『サンセット』も同じように画面の絵以外でも多くが語られる。夢か現実か分からない光や轟、影でやりとりされる出来事、些細な音が細部を観せる。観客を信じて。

ハブヒロシ監督の『音の映画-OurSounds』は映画なのか。
映画だろう。しかし、これを映画だと断言するのに監督は多少の勇気が必要だったのではないか。スクリーンがない、絵がない、画面がない。それは映画か。批判も容易に想像できる。

しかし、映画にスクリーンは必要かというと当然必要だと思っていた自分のような者にとって、石井健介さんのnoteは非常に考えさせられた。(こちらもらせんの映像祭主催者さんのTwitterで知った。ありがとうTwitter)
石井さんは視力を突然失った方で、その方が今回の『音の映画-OurSounds』を観た感想を書かれている。一部を引用する。

これは僕のような視覚に頼らずに映像作品を観ている人たちにとっては日常的なことだ

映像に頼らずに映画を観ている、観えている人がいるのだ。彼らは布の白幕としてのスクリーンには頼らないが、私より少なく観ているかというとそんなことはない。石井さんのnoteを読んで頂きたいが、彼は今回の映画でハイタッチのシーンを観ている。私はそれを見逃した。観えなかった。勿論他の映像でも彼は私より多くを観ているだろう。石井健介さんのnote↓

映像のない音だけのドキュメンタリー映画「Our SOunds」
https://note.com/madhatter_ken/n/nd37a58143c77


ところで、小説は紙を捲って読んだことを読了と言うのだろうか?そんなことはないだろう。iPadで読むことも可能だし、オーディオとして小説を聞く事で読む事もできる。小説を読むと言うことはそこに書かれたことを何らかの方法によって受け手が自らの体内に取り込むことであって、デバイスの選択や方法ではないはずだ。

地球には盲目の写真家や映像作家が存在する。ユジャン・バフチャル(Evgen Bavcar)もその一人だが、私は彼をJonas Mekasさんの映像日記で知った。彼には自分で撮影し現像した写真が視覚情報としては見えないが、彼がシャッターを切ったその瞬間に彼の写真は我々の元に現れ、そこにある。彼が切り取った世界、彼が観ている夢の世界を写したものが観られる。
興味のある方はelmikaminoさんの素晴らしいブログをどうぞ↓

『記憶の彼方へ』盲目の写真家ユジャン・バフチャル:365Films by Jonas Mekas
https://elmikamino.hatenablog.jp/entry/20070119/1169197858


スクリーンに映されたものを鑑賞することだけが映画ではなく、受け手の体内のどこかに映画として投影を試みられたもの。その手段として映像を無くし音のみで人の心に映写する。
指で文字を読む人もいれば、耳で映画を観る人もいる。そして手の触感から夢を写す人もいる。


上映後に映画の内容だけではなく、自分の浅はかさを含め映像というものについて広く思考させられる作品だった。監督とのアフタートークで、ある質問者さんが「映像を見る映画よりも出演者を近く感じた」と話されたのが印象に残った。もう一度観る機会に恵まれればその時は私もハイタッチを観たい。


『音の映画-OurSounds』 ハブヒロシ監督 / らせんの映像祭 


2021/12/03 上町休憩室管理人 N


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