インタビューnoteをやってみるという話
いろいろあってインタビューをやってみるという話になりました。
インタビューって割と独特のコミュニケーションだと思うんですね。
聞き手(Interviewer)と受け手(Interviewee)の関係が固定化されていて、基本的に入れ替わらない。どんなことを聞くか、が聞き手に委ねられているので受け手はアンコントローラブル。成果物は聞き手のためというよりもオーディエンスに供するために作られる。この点でディスカッションや対話とも少し違います。
インタビューされる側になることってみんなどれくらいあるんでしょうね。
されたことある人ならわかると思うんですが、それがVTRになったり記事になったり「成果物」の形をとったときに、「間違ってるわけでもないんだけどオレの知ってるオレとちょっと違う」って感じを受けたことは少なくないはず。
自分の声が自分に聞こえているものと録音された(周りに聞こえている)ものでは随分違うのと同じように、インタビューで切り取られた自分は自分自身の理解との間にはズレがあります。
それは聞き手の意図が演出としてズレを作ることがあるというふうに考えたほうが受ける方としてはスムーズ(あいつがわかってないからこうなるんだ、って思ったほうが腑に落ちる)なんでしょうけど、最近自分はそこを手放してみようと思ってるんですね。受け取られた「自分」は、それも自分のひとつの姿というか。
ウェブの世界はそういうズレが可視化されやすくなっていて、このズレが炎上やブームを生んだりしています。
過去にザ・インタビューズっていうサービスがあって、割とそこに真正面から行ったなあと思って興味深く見てました。残念ながらなくなっちゃったけど。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1602/03/news109.html
最近だとsarahahが個人間インタビューメディアをやってますね。
なんかFacebookもやりはじめてるし。
よく、SNSでメディアのことをあーだこーだと考えたり言ったりしてるんですが、メディア論って「メディア環境の中からしか論じられない」んですね。メディア環境自体がそこから抜け出すことを不可能にしている以上、メディアを客観的に論じるということの難しさがある。
「自分とは何か」もこれに近いものがあります。
自分の外からそれを規定することの難しさ。なのでインタビューされて描かれた姿はひとつの手がかりであるし、インタビューする側にとってはどこを切り取ったか(どう演出したか)と言うのは、自分自身の一部の投影でもある。
誰にインタビューするか、どんなことを聞くか、それを公開してみて本人や周りや自分自身がどう感じるか、などなどの判断を積み重ねていくことは、自分が自分自身を少しでも理解する(したつもりになる)きっかけになるんではないか。
という極めて個人的な理由でインタビューをやってみようと思っています。
とりあえずnoteに溜めていこうと思いますが、まだどうなるかわかりません。
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