本は息をする
自己紹介でもお話ししましたが、国文学を勉強しています。
以前、
「古典なんか将来使わないのに意味ある?」
と言われたことがありました。
古典を学ぶ必要性の是非は、SNS上でもしばしば目にします。
確かに一部の方からしたら、必要性は感じられないのかもしれません。
直接言われたのは一度だけですが、その一言が今も残り続けています。
ちょうど古典を学ぶ意義について悩んでいた時期、この言葉に出会いました。
『華氏451度』という、レイ・ブラッドベリのSF小説の言葉です。
舞台は本が禁制品とされた一都市。住人は政府から与えられる娯楽・情報のみで生活をしています。主人公モンターグは、昇火士として、禁じられた本を燃やす日々を過ごしていました。
しかしある時、隣人の少女クラリスと出会います。彼女との会話をきっかけに、彼は本に触れ、今までの日常を疑うようになります。
同僚に疑いをかけられ、頼りに逃げ込んだ老人の家で、モンターグに老人はこう語りかけます。あの、冒頭で引用した言葉です。
やはり、何度読んでも、この言葉が沁みます。自分の勉強している古典籍も、この世に残る本はどれも、かつて生きた誰かの考えや疑問、その時代の声と息遣いを今に伝えてくれるものです。本の必要性と魅力の全てを表してくれる一文だと思います。
住人の多くが、目の前の状況に疑問を抱かない、抱かせない都市。我々の住む現代もまた、沢山の情報が溢れています。
自分で考える、ということの大切さをも、この物語は私達に提示しているのだと思います。
この作品には幾度も本の価値について考える主人公の姿があります。悩み抜いた彼と都市のたどる運命が気になる一冊です。
おまけ
どれも本にまつわるお話です。本を好きになりたい方、好きな方、是非読んでみてください。
・高野文子『どみとりーともきんす』二〇一四年九月二五日 中央公論新社
・高野文子『黄色い本-ジャック・チボーという名の友人-』二〇〇二年二月二二日 講談社
・いせひでこ『ルリユールおじさん』二〇〇六年九月 理論社