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無性愛は悪魔の証明?

こんにちは! へんぷくです。

無性愛者を自認する人の中には、「恋愛感情や性的魅力を抱かない」ことを証明できないと悩む人がいます。

悪魔の証明」という有名な言葉があります。これは、「ないことの証明は極めて難しい」という考え方で、「ある」ことの証明は簡単だけど、「ないこと」の証明は難しいよね、というものです。今までなかったとしても、これからあるかもしれないことを証明できない以上、「ない」とは言い切れないよね、ということです。

では、これから先の人生でも恋愛感情や性的魅力を抱かないと言い切れなければ無性愛者の証明ができないのは、悪魔の証明なのでしょうか?

定義に立ちかえって

でも、ちょっと待ってください。定義の再確認から始めましょう。

Sexual orientation | An inherent or immutable enduring emotional, romantic or sexual attraction to other people.(生まれつきまたは変えられない、他人に感じる長期的な情緒的・恋愛的または性的魅力)

長期的な」というところがポイントです。魅力は、たとえそれを経験したとしても、「長期的」でなければ性的指向にカウントされないのです。

「機会的同性愛」のことを考えてみてください。機会的同性愛とは、同性に囲まれた環境で過ごす異性愛者が同性に魅力を抱くことを指す用語です。では、機会的同性愛者は両性愛者だと言えるでしょうか?

答えはNOです。なぜなら、このような傾向は環境が変われば消滅するため、「長期的」の定義を満たさないからです。少なくない人が同性に対する魅力を一時的に経験しますが、そのような人が同性愛を自認することは稀であることからもこれが実態に沿った定義であることが分かります。

同じ理由で、一時的に魅力を感じることがあっても、その瞬間に性的指向が変わるわけではありません。たとえあなたが一時的に特定の人に魅力を感じたとしても、それがあなたの性的指向を決定するものではないかもしれません。だから、「死ぬまで他人に魅力を感じないのが無性愛者」というのは、定義に反した硬直的な考え方なのです。

そもそもの話……

無性愛者が無性愛者を自認するということに、なぜ証明が必要なのでしょう? 「証明できるかどうか」という基準が無性愛者だけに適用されていること自体、不公平ではないでしょうか?

「あなたはこれから一生他人に魅力を抱かないと言い切れるのか?」

これが単なる無邪気な質問でないことは、同じことを異性愛自認者に投げかけるおかしさを考えてみればわかります。異性愛自認者に対して「あなたは本当に異性に惹かれたことがあるのか? あなたは死ぬまで同性に惹かれないのか? 同性愛の良さを知らないのになぜ言い切れるのか? 機会的同性愛の経験はないか? それは本当に環境による一時的な感情だったのか?」と証明が求められることはありません。

ならば、この質問の本質は「一生他人に魅力を抱かないと言い切れないなら、あなたは無性愛者ではないかもしれない、あなたは異性愛者かもしれない」という疑念の押しつけに他ならないのです(異性愛自認者は「あなたは異性愛者ではないかもしれない」と押しつけられることを免除されています! 異性愛者であると誤認する非異性愛者も多いのにね)。

まとめ

「一生他人に惹かれない」ことが証明できなければ無性愛者ではないというのは、以下の理由で間違った主張です。

定義の誤解:性的指向は「長期的な」傾向であり、一時的な感情はその指向を決定しません。一時的に魅力を抱くことがあっても、それが性的指向を変えるわけではありません。
不当な基準:異性愛者には一生同性に惹かれないことの証明が求められないのに対し、無性愛者には一生他人に惹かれないことの証明が求められるのは不公平です。
自己認識の尊重:個人が自分の性的指向をどう感じ、認識するかが重要であり、証明の要求はその個人の自己認識を否定するものです。

無性愛者であることの自認は、「これから一生他人に魅力を感じません」という宣言ではありませんし、一時的に誰かに魅力を感じたとしても無性愛者であることを否定するものではありません。

「わたしは無性愛者です」と表明する人は、自分が無性愛者であることを証明しようとするのではなく、自分が無性愛者であることをよりよく表現する方法を模索する方が建設的ではないでしょうか。

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