誰かのために撮る写真
「大切な人を失ってから、もっと写真を撮ればよかったと気づき、
後悔したことから誰かのために写真を撮りたいと思う」
写真家になるきっかけとして、そんな話を聞いたことがある。
自分にはその経験がない。
ただ、誰かにありがとうと言われるのが好きで写真を撮っていた。
そこには、「誰かのため」という言葉を使ったエゴが
大いに隠されていたのだと、今になって思う。
撮りたいものだけを撮っていたし、
家族は気恥ずかしさもあって、撮らないことがほとんどだった。
しかし、先日初めて、写真を撮らなかったことを後悔した。
母の父母はここ数年、体が弱ってきている。
まだまだ先が長いとは言い切れず、
次に会うときも元気でいてほしいと願っている。
帰るときには強く握手をして、
「パワーを少しでも」と思いながらギュウ〜っと握る。
そんなじいじとばあばを、自分の家のことをしながら支える母。
実家を離れた自分はたまの帰省で話を聞くだけだが、
その大変さは計り知れない。
だからこそ、自分にできることは何か、頭の片隅でいつも考えていた。
昨年の暮れ、姉が結婚することになった。
実家を離れ、旦那さんと暮らす変化を少しずつ感じながら、
当たり前だった家族の風景が変わっていくことを実感した。
年末年始を家族で過ごすのが恒例だった我が家も、
来年は全員で年を越せるかわからないと思うと、どこか寂しかった。
(もちろん、姉の結婚自体はすごく嬉しかったけれど。)
そんな中で迎えた今年の正月。
母方の実家に新年の挨拶に行った。これも毎年の恒例行事だ。
行く前に母が「写真を撮ってあげてほしい、きっと喜ぶから」と言った。
小さい頃からずっと会っているじいじとばあばを改めて撮ることに、
少し気恥ずかしさを覚えながらも、
母が喜んでくれるならとカメラを持って行き、少し写真を撮った。
レンズ越しに見るじいじも、どこか気恥ずかしそうだった。
一人一人数枚ずつ撮影し、カメラをしまった後は、
いつも通り横になり、一緒にグータラした。
毎年のように24年。「来年も」と自然と思い描いていたこの当たり前の時間が、
変わらず続くものだと思っていた。
しかし、帰った後に気づいた。
みんなでの写真を撮るべきだった、と。
来年も、が当たり前に来ると思っていたのは、間違いだった。
そのことに気づいていたはずなのに、
目の前に流れる当たり前の時間の中で、つい忘れてしまっていた。
自分ができることは明確だったのに、
それに気づくのが遅く、できなかった。
(まだ会えなくなったわけではないから、
もうできないというわけではないけども。。)
しかし、それでも確実に訪れる
今という瞬間を残さなかったことを、心底後悔した。
きっと母やじいじたちが今最も喜ぶのは、自分自身の写真ではなく、
みんなで集まった写真。
その写真を渡すほうが、何億倍も元気を出してもらえるとわかっているのに、
それをしなかった自分が情けなかった。
そして同時に、今までのカメラとの向き合い方ではいけないと感じた。
「何のためにカメラをやっているのか。」
その答えが少しわかった気がした。
「大切な人を失ってから、もっと写真を撮ればよかったと気づき、後悔したことから誰かのために写真を撮りたいと思う」
そう語る写真家の気持ちが、少しだけ理解できた気がする。
次の日、家族で出かける前に、家族写真を撮りたいと提案した。
みんなに並んでもらい、三脚を立てて場所を決めた。
レンズを覗いたとき、気づいた。
今、自分は母や姉、父のために撮りたいと、心から思っている。
そこには、もう気恥ずかしさはなかった。
そして、シャッターを切った。