私たちはなぜ生まれたのか

社会は、ほとんど常に無能というやつに厳しい。仕事ができないやつ、会話が不得意なやつ、努力しないやつ……。
そういうやつを、怠惰な落第生と定義し、蔑んだり、不遇な扱いをしたりする。

と、仮定したとき、人間の生まれた目的はきっと、社会に貢献するため、となる。
これは正しいか?
私たちは労働するために生きてるんじゃない。

人間目線、私たちの生まれた意味を考えると、幸福であるため、と定義できる。社会貢献を意義に感じることも有能の定義に含め、それ以外を無能とするならば、社会貢献をすることは幸福であるから、生まれた意味は幸福であるため、とすることもできるが、「私たち」の範囲は全人類に渡り、その「私たち」には当然無能と呼ばれた人間も含まれるのだ。
私はなぜ生まれたのか。これを幸福であるため、と定義できるなら、無能が中途半端に蔑まれる謂れはない。

無能が不必要なら、殺せばいい。それとも社会は、有能な人間や、無能同士で、ストレスのはけ口にするためだけに無能を生かしているのか? それとも、殺すことは人道に反するとでも? 殺人はいけないという普遍的な理想があり得るなら、人間である無能を蔑むことも、理想に反するのではないか。
社会が普遍的な理想を望むなら、全人類を幸福にしなければならない。また、理想に反する行いを、してはならない。
目には目を、というような意趣返しに、正義はないということも。

いいなと思ったら応援しよう!