『山月記』(中島敦)
「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。」ー『山月記』中島敦よりー
「隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが・・・」と凡そ日本語らしくない語感の言葉が続く冒頭文は、中学だったか高校だったか、暗記をしたような記憶があります。不思議と今でもこの最初の数行だけはすらすら出てくるのですが、その部分の意味がよくわからないだけでなく、はてどんな話だったかしらと、久しぶりに読み返してみました。そして、おそらく30年ぶりに読んだ『山月記』はとっても面白かったのです。
昔、夏目漱石の『こゝろ』を十数か月かけて朗読したことがありました。『こゝろ』は昭和35年からずっと高校教科書に掲載されているそうなので、朗読会に来てくださっている方は誰しもが十代のうちにその一節でも読んだことがありものです。そうしたら、朗読会が進むに連れて「昔読んだときは主人公の気持ちにしか共感していなかったが、年齢や経験を重ねた今は親や先生の気持ちがひどくわかって驚いた」という感想を頂きました。 私にとっての『山月記』も同じことが言えて、虎になった主人公「李徴(りちょう)」が、若さゆえの虚栄心や羞恥心に翻弄されて苦悩する様を、自分の若かりし日のもやもやを思い出しながら味わわずにはいられませんでした。
きっと、十代の自分にとっての『山月記』は、「未来のこと」として「そうはなるまい」というような安直な自信があったようにも想像できますが、大人になった今は描かれているどの感情も思い当たることばかり。大人になるということは、大きくなったり前に進んだりすることではなく、小さな自分を知ったり、後ろを振り返れるようになることなのだなぁと思いました。
中島敦は、この『山月記』がデビュー作だと言います。教員として働く傍で小説家への夢が諦められず、作品を書き溜める日々。戦争も始まり、現代よりずっと過酷に自我の拠り所を模索する日々だったろうと想像しますが、李徴の声は不思議なほどしっくりと今のわたしたちの耳に届きます。
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