今更ながら、“自己責任バッシング”を振り返って(2005年8月)
いっやー、本当に、久々の投稿になってしまいました。汗
久々なのに、突然、超・長文です。笑
しかも、16年前の2005年に書いた文章をそのまま載せさせていただきます。
とある場所で、森達也さんの書いた『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』という本を紹介したら、それを読んでくださった方がいて。
そういえば、森さんのこの本について以前長々と文章を書いたことがあったなぁと思い出して、16年前のその文章を探し出しました。
読み返してみたら、我ながら、面白い。
っていうか、これ、私の原点じゃない? いろんな意味で。
というわけで、その文章をそのまま掲載させていただきます。
時代背景は随分違っているし、いろんな事象自体が昔のことでぴんと来ない方もいるかとは思いますが、起きていることは今と共通しているんじゃないかと。
我ながら、いろんな意味で刺激的な文章だと感じています。
長文ですが、よろしければ是非、最初から通してお読みください。
以下が本文です。
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去年(2004年)の春、イラクで日本人人質事件が起き、その直後から日本中で「自己責任バッシング」の嵐が巻き起こった。あの時に私が感じた激しい恐怖をどのように形容すればいいのだろう。いまだにそれを言葉にするのがなぜかこわい。この時感じたことについて言葉にしたいと思って何度もコンピュータに向かったのだが、書こうと思うとそれだけで体がだるくなってきてウツ状態に陥りそうだ。
あの時の感覚は……。そう…。自分がこの日本の中で、たったひとりぼっちであるかのような感じ。一言でいえばそういう感覚だ。誰にも理解してもらえず、世界中が敵にまわったような感覚だ。このままじわじわと日本が全体主義に向かっていくような恐怖に囚われ、からだがばらばらになりそうなほど怯え、一時的に精神状態がおかしくなった。とにかく私は仲間がほしかった。同じ思いを共有できる仲間がほしかった。でなければ、とてもじゃないけれども自分が感じている恐怖や孤立感に耐えられそうになかった。
そして、生まれてはじめて「平和集会」なるものに参加した。その場で私は、人質になった三人のご両親に手紙を書いて、渡してもらえるように主催者に頼んだ。その手紙には「もし自分が人質になったとしたら、自分のことをこんなにも一生懸命考えてくれる家族をもったことを誇りに思います」と綴った。
報道を見ながら、自分がもし人質の家族だったら、あるいは人質本人だったら、と繰り返し何度も何度も想像した。その「想像」をとめることが、どうしてもできなかった。もし自分の子供や妹が人質になって残虐な方法で殺されることが予告されたら、たぶんどんなことをしてでも、何をやってでもそれを止めようとするだろう。あるいは、気が狂いそうになるかもしれない。眠ることなどできない。とにかく、なりふりなどかまわず必死になる。それが当たり前の感情だ。私はそのように想像し、家族に感情移入した。当然ながら他の人たちも私と同じように感じていると疑わなかった。
ところが、自分が予想もしなかった反応が日本中を席巻した。それどころか、自分の近くにいる家族や友人まで世論と同じ反応をしていた。
私が間違っているのだろうか?私の感覚がへんなのだろうか?政治以前に、ひとりの人間として、自分の子供や妹を人質にとられた家族の苦しみに思いを馳せるのはおかしいことなのか?弱り切った家族に脅迫めいた手紙や電話が殺到するなんて、この日本という国は一体どうなってしまったんだろう。
それからまた、無事に帰国した人質当事者の三名に向けられた日本国民からの批判。飛行場に降り立った高遠さんは両脇を支えられ、立つことすらもできなかった。その恐怖を私はまるで自分自身の恐怖であるかのように強いリアリティをもって感じていた。たぶん、からだがばらばらになってしまいそうな恐怖だ。今この場所にいるのが危険だという恐怖だ。彼ら人質には悪意はまったくなかった。そして実際に悪いことは何一つやっていない。まるで魔女狩りみたいだ。中世の魔女狩りみたいだ。私はそう思った。そして、恐怖や孤立感を感じると同時に、そのようにして人を追い詰めていく人びとに対してある種の「憎悪」のようなものさえ感じたのだ。
日本国中を渦巻いている陰湿な憎悪が私にまで伝搬していた。
その後、24歳のひとりの若者が人質になり処刑され、生首が切り取られる映像がインターネットで世界中に配信された。彼が人質になった時の反応は、メディアも世論も驚くほどひややかだった。前回の報道騒ぎと比べて、今回は余りにも静かだった…。辛淑玉さんは「殺したのは私なのだ、殺したのはあなたなのだ」と言った。
あれから1年以上の歳月が経過した。その間、平和運動をやっている人たちとの出会いもあった。平和運動と接してみて感じた違和感についてはまた改めて書いてみたいと思っているが、だが少なくとも彼らと出会ったことで、自己責任バッシングに対して恐怖を感じていたのは私だけではないのだとわかった。その後、自然エネルギーを普及することによってイラクの戦争をやめさせようとしている人たちの考え方に出会ったり、自然農や有機農法をやることにんよって足元から平和をつくる運動をしている人たちと出会えたことは大きな収穫だった。上野千鶴子さんや辛淑玉さんが自己責任バッシングに対して表明した意見も、私を勇気づけてくれた。
吊し上げをする社会への違和感
自己責任バッシングの最中に感じた「孤立感」を、今までにも感じたことがあった。今までにも何度も、同じような「違和感」や「孤立感」を感じていた。それを感じるたびに、自分がおかしいのだ、自分が間違っているのだとして、その感覚を封じ込めようとした。
自分の意見を言うことが苦手だった。自分の意見や考え方は異端で変わっていて間違っていて、だからそれを言葉にしてはならないのだ、とそんな風に思いながら生きてきた。もしもそれを言葉にしてしまったら迫害される。少し妄想的かもしれないけれどもそういう感覚があったのだ。
私はフリーライターとして原稿を書く仕事をしていた。だけれども、自分が本当に感じていることや思っていることについては原稿に書いたことがなかった。そんなことを書いても受け入れてくれるはずがないと思い、こういう時ふつうの人ならどう思うのだろう、どう感じるのだろう、どんな風に書くのが無難なのだろうと想像しながら原稿を書いていたのである。一般論を言葉にしている私と、心の底で別の本音を抱いている私。そのふたつにいつも引き裂かれていた。自分の中にむくむくと湧いてきてしまう「違和感」。社会が常識としているものや、他の人たちの反応に対して感じる「違和感」。それは私にとって邪魔な感覚だった。
過去にさかのぼれば、オウム事件の時にもやはり今回と同じような「違和感」と「孤立感」があった。強烈な違和感だった。
オウムも確かにこわいのかもしれない。こわいに違いない。でも、世間のヒステリックな反応の方がオウム以上にこわかったし、それを言葉にすることさえ禁じられているような雰囲気があった。多分、当時と同じ反応が今でも主流なのだろう。
遺族のことを考えたことがあるのか。よくそんなことが言えるな。お前はテロを容認するのか。相手は殺人集団なんだぞ。
ほんの少しでもオウムの側に立った発言をするだけで袋叩きにあいそうな雰囲気だった。まるで言語統制が敷かれているようだった。そして実際に、友人や周囲の人間と小さいいさかいを重ねた。
もっと前にさかのぼれば、江川卓の騒動や、三浦和義ロス疑惑があった。
江川卓の騒動は記憶にあるだろうか。ずいぶん前の出来事だから、若い人は記憶にないかもしれない。野球選手の江川卓が、野球の規約のすきまをぬって巨人軍に入団したとして日本中から叩かれた事件だ。当時、中学生か高校生だった私は両親と一緒にテレビを見ていて、メディアの言葉を鵜呑みにして江川批判している両親に対する疑問や違和感を抑えることができなかった。
誰かを吊るし上げて、自分の中にある不満やフラストレーションのガス抜きをしているだけにしか思えなかったのだ。誰かを見つけてきて魔女狩りのように吊るし上げて楽しんでいるだけではないのか、そんな風に感じていたのだろう、たぶん。当時の私はこんな風には言語化できなかったのだけれども。それと同じような感覚を、ロス疑惑の時にも感じた。(あの騒動はいったい何だったのだろう?三浦和義に対しては結局「無罪」の判決が出たけれども、あのお祭り騒ぎのような報道を繰り返した人たちは、どんな気持ちで無罪判決を聞いたのだろう?)
オウム以降で言えば、神戸の酒鬼薔薇事件、鈴木宗男議員の一件、浅田農産の会長夫妻が自殺した時、そして今年のJR西日本の脱線事故。…あの熱狂は何だったのだろうか。
酒鬼薔薇事件の時は、たぶん日本全体が恐怖に陥ったのであろう。少年がなぜあんなに残酷な事件を犯しうるのかと。理解しがたい恐怖に遭遇すると、異常なモンスターがやった行為として人は納得したがる。
酒鬼薔薇事件が起こった頃、オルタナティブ・メディスンについて原稿を書いていた私は、スピリチュアルヒーリングを勉強する集まりに参加していた。勉強会のあと数人でお茶を飲んでいる時、そのうちのひとりがこう言った。どうしてあんな残酷な事件を犯す人間が存在するのか理解できない、と。
ねぇ、人間はつい最近まで戦争でもっと残酷なことをいっぱいやってきたんだよ。どうして理解できないの?自分はそういう邪悪さとはまったく無縁の美しい霊的な存在だと言わんばかりの態度が私はどうしてもがまんできないんだよ。強い苛立ちとともに心の中でそう毒づいている自分がいた。
辻本清美は嫌いじゃない。でも鈴木宗男に対する国会でのあの態度は違うんじゃないだろうか。そう思う。鈴木宗男ひとりが悪者じゃないのに。鈴木宗男はスケープゴートだ。それなのに「疑惑の総合商社」とか「私をお母さんだと思って質問に答えてください」とか、そういう言い方はどうなのだろう。でもそれすら言葉にできない雰囲気だった。
世論が誰かを悪者と特定したら、一市民はそれに反論したり口出ししたりしてはいけないのだ。悪者や加害者や責任者は、徹底的に完膚なきまでに糾弾されなければならない。絶対に許してはならない。それに加担するものも許さないという目に見えない弾圧。
自分がそんなに強い人間じゃないことを私は知っている。いつ間違えるかわからない弱い人間だ。世の中の流れに乗ってわけもわからぬまま、上司に命令されるままに、無自覚に悪いことに手を染めてしまうことだってありえない話ではない。周囲の人間の期待に応えようとして、疑うこともなく、何も考えずにやってしまうのだ。イイコをやり続けてきた自分に置き換えてみて、そう思ってしまうのだ…。
もちろん悪いことは悪い。犯罪は犯罪だ。だが、誰かひとりに責任を押し付けてスケープゴートにしていたのでは同じことが永遠に繰り返される。
JR西日本の脱線事故が起きた時、運転士やJR西日本に責任があるかのような報道が続いていた。まるで鬼の首を取ったかのように、ここぞとばかりJR西日本サイドを責めていた。運転士の両親に電話をかけて、どう考えても答えられないような質問を繰り返していたテレビ関係者の口調がまだ耳に残っている。あの親だって、自分の子供を失った悲しみに引き裂かれているというのに。
誰かひとりが悪いのだろうか。あるいは特定の企業だけが悪いのだろうか。私にはそうは思えないのだ。この世界は有機的につながっている。効率を追い求め、利益や競争を優先する社会をつくってきたのは、私たちひとりひとりではないのか。
自分もそのゲームにのっかってその恩恵を受けてきたくせに、ひとたび事件が起これば、自分とは無関係なエゴイスティックな人間が引き起こした理解不可能な事件であるとして自分から切り離そうとする。だが、本当にそうなのか。
鳥インフルエンザの事件の時、浅田農産の会長夫妻を追いつめて自殺させたのは誰なのか。あの結末に私は胸がしめつけられるような思いがした。まるで自分の親が自殺したような気分だった。
高度経済成長の中で私たちは効率や利益を優先して生きてきた。たぶん、浅田農産だけでなく、他のところも大なり小なりそうだろう。私の親もそうやって生き、私を今まで育ててきたのだ。近代化という社会や経済のあり方の歪みがあのような形で表れたのだ。個人を責めればいいという問題ではない。個人だけの責任ではない。自分だってそのような社会のあり方から恩恵を受けていたのだ。そしてあの事件は、自分たちの生活を根本から考え直さなければならないという警告ではないのか。
この事件について平和運動をやっている人間と話をしたことがある。もしこれが自分の親だったらと想像すると胸がしめつけられると私は言った。しかし彼は、二次被害・三次被害が出たかもしれないのだから仕方ない、そういう人間は死んでもいいと言い、その言葉に絶句した。それじゃあ、9・11以降のアメリカと同じじゃないの……?
数年前、DV被害者を支援するグループに加わっていた時のことだ。
私は、セラピーグループに参加してDV加害者の話を直接聞いたことがあり、DVというのは個人の問題ではなく、社会的な問題であると感じていた。男社会や家父長制度やジェンダーバイアスや、個人の生育歴や家族の問題や、競争原理や市場原理その他さまざまな問題が複雑にからみあって生じる。
セラピーグループに参加していたDV加害者は、自分がなした行為の罪悪感に苦しめられていた。私は、彼が語った生い立ちや苦しみを理解した。その思いを共有できた。だからといって彼の罪が許されるわけではない。しかし私は、彼の罪悪感や苦しみには共感できる。自分の中に生じた共感を否定することはできない。彼の生い立ちに共感する私の感情と、彼が犯した罪の重さや犯罪にどう対処するかはまた別の話だ。
ひとりの人間が「DV加害者に共感する必要はない!!」と声を荒げていた。でも、共感は意志でコントロールできるものではない。自然に湧きあがってきてしまうものだ…。
森達也の葛藤と煩悶
自分の中にある「違和感」について脈絡もないまま書き連ねてきた。私はことあるごとにこういう違和感を感じてしまう。この違和感が災いして、どこに行っても「場」にうまく溶け込めないような気がしてしまうのだ。この「違和感」の底に流れているものは何なのか。それがうまく言語化できなかった。
最近、森達也の本を立て続けに4冊読んだ。
『世界が完全に思考停止する前に』『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』『A2』の4冊だ。そして今、森達也と姜尚中の対談集『戦争の世紀を超えて』を読んでいるところ。
ふだんめったに新聞や雑誌を読まない。もし情報がほしければ、単行本などを読んで情報を集めることにしている。マジョリティに向けて発信された情報があまり信用できないということもあるし、それに犯罪事件などの報道に接していると具合が悪くなってしまうのだ。
だから、森達也がドキュメンタリー映画の監督であるということも、最近マスメディアで多く発信しているということも知らなかった。でも『世界が完全に思考停止する前に』というタイトルは一瞬にして私をとらえ、思わず衝動買いしていた。読み終わってすぐ、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』を続けて読んだ。
自分の中にずっとくすぶっていた「もやもや」が、森達也によって正確に言語化されていた。そのことに衝撃を受けた。大袈裟だけど、生きていてよかったと本当に思った。自分と同じように違和感を感じ、孤立しながらもその違和感を放棄しないで映像にまで高めた人間がいた。そのことが無性に嬉しかった。それがわかっただけで、なんだか勇気や希望が湧いてきた。
森達也は、オウムの側から社会を撮る映画をつくり、そのことによってテレビ業界からスポイルされた元テレビディレクターだ。だが彼はこの映画で高い評価を得て、以来、雑誌や新聞などで独自の視点からさまざまな発言をしている。
『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』をとにかく読んでみてほしいのだけれど、ここではそこから少し引用しておきたい。
「大切なことは洗脳されないことではなく、洗脳されながらどれだけ自分の言葉で考え続けられるかだ。信者たちの思考停止はある意味で事実だ。そして社会の思考停止も同様だ。鏡面を挟んだように、この二つは見事な相似形を描いている。」(P175)
「被害を受けた日本社会は、事件以降まるでオウムへの報復のように他者への想像力を停止させ、その帰結として生じた憎悪を充填し続けている。憎悪という感情に凝縮されたルサンチマンを全面的に解放し、被害者や遺族の悲嘆を大義名分に、テレビというお茶の間の祭壇に、加害者という生け贄を日々供え続けている。」(P176)
「大切なのは、「わかる」ことではなく「共有する」ことなのだ。言葉や論理を紡ぐことではなく、僕らが天分として与えられた想像力を、互いに普通に機能させることなのだ。」(P202)
「彼らは信仰という空白を自ら選択した。少なくともその自覚は持っている。その空白ゆえの危険性を否定しない。しかし位相が違うのだ。怖いのは、同じ思考停止状態に陥りながら、その自覚を髪の毛ほども持てない社会の側なのだ。」(P231)
「むきだしの憎悪を燃料に、他者への営みへの想像力を奪い、全員が一律の反応を無自覚に繰り返し(半世紀以上前、僕らの父や祖父の世代は、こうしてひとつの方向にのみ思考を収斂させることで、取り返しのつかない過ちを犯してしまったはずではなかったのか?)、「正と邪」や「善と悪」などの二元論ばかりが、少しずつ加速しながら世のマジョリティとなりつつある。」(P252)
私が森達也に惹かれるのは、彼自身が常に迷い混乱し葛藤し煩悶し、その姿をさらけ出しているからだと思う。彼が『A』の主役に選んだオウム広報部の荒木浩が、オウムと社会というはざまであがいていたように。
他者に対して想像力を働かせるのは、とても苦しい行為だ。他者に共感したり想像力を働かせることを身につけると、単純な「善悪のモノサシ」では判断できなくなってくる。人の営みというのはつながっていて、複雑にからまりあっていて、陳腐な善悪の解釈で読み解けるものではない。
犯罪という事態の重さや被害者の苦しみを知っていればいるほど、加害者に対しても思いを馳せてしまう自分を許しがたく感じ、引き裂かれるような感覚を味わう。その宙吊りの中にとどまり、なおかつ思考し続けるのはたやすいことではない。
共感するということは、迷い葛藤し煩悶し、両者の間に立って引き裂かれている自分を受け入れることなのだ。善悪のモノサシで裁くのはたやすい。ずっと楽だ。だから時々、考えることも感じることも一切やめたくなってしまうことがある。ロボットになって、誰かが決めてくれて、社会のやり方に無条件に従って、何も考えずに生きていられたらどんなに楽だろうかと思うこともある。
実際に私は、ある時期そうやって生きていた。競争原理の中で、自分の思考や感覚を停止させ、そのゲームの中でロボットのように生きようとした。(繊細な人間は、競争原理の中ではそうしないと生きられない。)その結果ウツになった。何も感じなくていいように自分を麻痺させたのだ。
感情を感じる機能を停止させると、やっかいな感情を感じなくてすむ。だが同時に喜びや感動も感じなくなるのだ。生きること自体が機械化され、生活から生彩さが失われ、なぜ生きているのかがわからなくなってくる。
その私を目覚めさせたのは、ウツになって訪れたグループセラピーで出会った仲間たち(その多くはサヴァイバーだった)の言葉だった。しぼりだすような、とぎれとぎれの言葉。冗長でわかりにくい言葉の断片。その言葉の断片をなんとかして理解したいと思ってつなぎ合わせていく間に、麻痺して停止していた私の感情や感覚がじょじょに息を吹き返した。それは理屈ではない。善悪ではない。大義ではない。人の痛みをただ受け止め、それに伴って引き起こされる自分自身の「痛み」や「葛藤」を取り戻していくプロセスだった。
違和感があると確かに生きにくい。でも、違和感は私にとって手がかりなのだ。違和感はいつも、自分をごまかすなというメッセージを私に突きつけてくる。
この社会に無自覚に加担している自分
なんだかとりとめもなく書き連ねてしまった…。
自己責任バッシング以降、いろいろな人と出会い、いろいろな出来事があり、いろいろなことを考えた。そして今思うことは、この社会に対して自分も無罪ではないということだ。今この社会で起こっているあらゆる現象はすべて有機的につながっていて、自分にも責任があるのだ。だから、誰かを断罪してほっとするのだけはやめようと思う。
自分の生活を変えることもしないで、戦争や犯罪や暴力や紛争やその他もろもろのことを批判するだけというのはやめようと思う。あれかこれかの二者択一ではなく、第三の道があるということを考え始めるのだ。
自分にできるのは、自分の足元から自分の生き方を変えていくこと。まずそれが基本だし、そこから始めるしかない。そして、自分のできる範囲で、自分にできるやり方で行動を起こすこと。そんなちっぽけなことで変化など起こせない、と言う人がいるかもしれない。でも私はそうは思わないのだ。ひとりひとりが意識や価値観を変えていったら、社会はおのずと変化する。ひとりひとりの行動が積み重なれば、社会は確実に変化する。だって、社会とは人びとの意識の総体にほかならないのだから。
他の人も自分も傷つけないで誰からも搾取しない。そういう世界が可能だというビジョンを私はけっして放棄しない。誰が何て言ったって、そういう世界が可能なのだと信じ続ける。
「仕方がない」とか「無理だ」とか「できるわけがない」とかいう言葉が私は大嫌いだ。やってみようとしないで、なぜそんなことが断言できるのか。
それに、そのような言葉を発することができるのは、恵まれた立場にいる人間の特権なのではないかと私は思う。紛争や殺戮や飢餓の渦中にいる人間にとって、そんなことを言っている余裕はない。恵まれた立場にいる人間は、「仕方がない」と言う前に、自分に今何ができるかを考える義務がある。少なくとも、自分たちの生活が他国の人びとの犠牲の上に成り立っているという自覚くらいは持つべきなのではないか。そうしないためにはどうしたらいいのかを考えるのは、自分達の責任なのではないか。自分の中にも時折忍び込んでくるニヒリズムがある。でも、それに何としてでも抗い続ける決意はした。
自分の希望やビジョンをイデオロギーに売り渡したりはしない。誰かに代弁してもらったりもしない。私は、自分の限界の中で今自分にできることを、日々の営みの中で続けていくだけだ。
ガンジーの言葉より。
「世界の変化を望むのであれば、自分自身が変化を起こさなくてはならない。」
辻信一の言葉より。
「この巨大なシステムの中に生きながら、ひとりひとりが責任のとれなさを自覚し、その痛みにうたれながら、しかし、自分なりのしかたで責任を引き受けて生きる。」
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