小説VS漫画 リレー作品:第2話 癌口(小説)
エレベーターの扉が開いた瞬間、生暖かい空気が一気に流れ込んできた。視界に広がるのは現実から遠く離れた狂気の世界。薄暗い中で芋虫のように蠢く臓物と、血溜まりに悦ぶ蛆。一歩先の地面は赤黒くブヨブヨしていて、生肉のようにも見える。エレベーターの床との境目が、現実との境界線にも思えた。
脂と血の臭いが容赦なく肺に流れ込み、胃袋がひっくり返りそうになる。鼻と口を押えてもまるで意味がなかった。頭がぼんやりとしてきて目が霞み、思わず膝をついてしまう。
すると足元に携帯が落ちているのに気付いた。一瞬だけ誰のだろうかと思ってしまった。それが自分の携帯であることすら分からなくなる程に混乱していたのだ。
圏外になっているというのに、画面には「着信メール一件」と表示されている。携帯を操作し、届いたメールを確認すると、また自分からのメールだった。
差出人:自分
宛先 :自分
件名 :指示
引き返す→飛び降りる
引き返すというのはこの世界から元の世界にもどるということなのだろうか? しかしそうだとしても飛び降りるというのが分からない。恐る恐る顔を上げて、必死に見ないようにしていた異界を見渡す。
自然と眉間に皺が寄り、目を細めてしまうのはこの世界を見てはいけないと本能的に判断しているからだろう。
飛び降りられるような場所を探してみたが、それらしい場所は見つからない。結局何をどうすれば良いのかも分からない、かといってエレベーターの外に出て探索する勇気もなかった。
途方に暮れてしまいそうになったその時、ふと試していないことがあるのに気が付いた。エレベーターのボタンを押していない。
こんな単純なことすら忘れていた自分に腹が立つ。と、同時にここから戻れるかもしれないという希望が生まれた。
内側の手すりに掴まり、力の入らない足で必死に立ち上がる。開きっぱなしの扉をとりあえず閉めようと、手を伸ばして開閉ボタンを押した。
だが、ボタンは反応しなかった。背骨に氷水を流されたかのような寒気を感じる。
「大丈夫だ……きっとほかのボタンは反応するはずだ…………」
声に出して自分に言い聞かせるが、心臓は今にも破裂するのではないかと思える程に鼓動し、背中からは大量の冷や汗が流れていた。
震える指を一階のボタンに近づける。しかし乱れる呼吸と揺れる視界のせいで狙いが定まらない。手すりの上に肘を乗せて体を固定し、右手で左手を支えながらボタンを押しにかかる。エレベーターのボタンを押すだけで、ここまで苦労している自分が情けなくなってきた。
ようやくボタンを押せた! と喜んだのも一瞬。エレベーターは動かなかった。しかしそれを認めたくなくて何度も押してみる。一階だけではなく、全てのボタンを拳で狂ったように叩き押す。
それでも反応しないのが分かった途端、突然恐怖が襲ってきた。まだ方法はあるという小さな余裕ですら失ってしまった。
鼻の裏にこびりついた臭いが絶望の脳味噌をさらに破壊していく。激しい耳鳴りと頭痛が吐き気を呼ぶ。今崩れ落ちたら狂ってしまうという予感がする。足元がひどく揺れていて立っているのが辛い。
最悪な人生だった。やりたいこともなくて何となく大学に行ったけれど、結局引きこもりになって……それで…………こんな結末だ。
最後に思うのは後悔ばかりだった。あの時こうすれば良かった、あの時はああすれば良かった。もう遅いと分かっていても考えずにはいられなかった。
――あぁ、もうダメかもしれない。
垂れさがる瞼で視界が閉じられようとしたその時、突然誰かに体を支えられた。
「おいおい……こんな場所で狂うのかい? それは少し早すぎるよ」
男の声が聞こえたのを最後に私は気を失ってしまった。その声は静かでか細いというのに、何処か楽しくて仕方がないようにも聞こえた。