2024//9/24
この日記、およびこのアカウントの投稿は僕の感覚や辛かった話のいわば個人的な備忘録である.
このことを念頭に僕の日記を読んでほしい.
さて、少し昨日みたいなテーマを話そう.
この日記シリーズを見ている希少種諸君は察しているかもしれないが、過去触れたテーマを拡張して書き出すことがそこそこある.
今日もそういう感じだ.
さて張り切っていこう.なんせ深夜だから.もう寝たい.
信じることについて、ひいては信じることのエネルギーについて
少し考えていこうと思う.
といっても諸君にとって信じることのエネルギーは理解しかねる代物かもしれない.
ということでそんなことを考えるようになったきっかけを書いていこうと思う.
とはいってもそれはものすごくシンプルだ.
ただ人に頼る、人に相談する、打ち明ける.
その度に、そうしようとするたびに吐き気がした.
ひどい時は息もしづらくて涙が出た.
原因はよくわからない.
人を頼るのが心底嫌いなのか、他人が心底嫌いなのか、人に頼ることを敗北と捉えているか、もしくは何かしらのトラウマか.
いろんな説がある.僕の中で.
詰まるところ、人を信じることがものすごくストレスになった、のかもしれない.
嫌いなものは見たくない.嫌いなことはしたくない.
簡単なことだ.
誰だってそれはそう.できるできないは別だが.
ついでに私は嫌いなことに思いを馳せて吐いたことがいくつかある.
塾とか.
人を頼るのが心底嫌いでも、人が嫌いでも、敗北だと恐れていても、
それは全てストレスになりうる.
おそらくなっている.
人を信じるというのはかなり、僕にとっては、エネルギーを消費する行為だ.
気軽にはできない.
人を信じるというのは、他人への警戒をとくということ.
つまり向こうに殴られたら盾がない.
信じた人間に死ね、なんて念密に執拗に具体的に言われたら命が絶えてしまうだろう.
でも信じていない人間ならいくらでも警戒できる.
警戒しないことが信じるということだからだ.
それでも誰も信じないというのは限界がある.
誰にも頼らないというのは無理がある.
それでもできるだけそんなことを、自分を守って生きていきたい.
それだけの話だ.
思えばデジタルイラストを始めたのは、人に絵を頼りたくなかったから、だった気がする.
そう、そんな人間が人を頼り信じるなど.
無謀にも程があるのだろう.
余談だが、頼る、相談するということができる状況が存在する.
それは相手の職業が精神科医だったり、先生だったり、
相手がそれで金を得ている場合だ.
僕は金への信頼が強い.
すごく強い.
だから裏切らない、否定しないと思っているのかもしれない.
だってそうしてしまったら、インターネット上で晒され、叩かれ、廃業になるかもしれない.
不利益しかないのだから、そんなことしないと思っているのかもしれない.
でもそんな不利益なことしかしないことをする精神科医の話はよくきくが.
まあ精神科はよく選んでいる.お陰でいい先生に当たった.
バックれたが.