『感傷よりも青い月』2
京介(きょうすけ)の運転していたセダンが停まった。ドアを開けると、クーラーの効いた車内に熱気が流れ込む。堤(つつみ)は車から出ると数時間ぶりに背筋を伸ばして、長いドライブで凝り固まった身体を楽にする。
快晴の空の下、くすんだシルバーのボディが太陽光を跳ね返す。路面のアスファルトは靴の底から焼いてくるように熱い。安物の運動靴の底は悲しいぐらいに磨り減っている。
「取り敢えず、一本吸わせてくれ」京介は車から降りずに煙草を吸う。銘柄はセブンスターだった。人様の邸宅前に車を停めたままというのも行儀が悪い。屋敷に隣接した駐車スペースはあるのだが、勝手に車を入れるのもよくはないだろう。既にそちらには二台が駐車されている。まだ、空きはあるようだった。田舎である。一日ぐらい路上駐車していても、こんな場所まで取り締まりに来る者はいないのかもしれない。
車には戻らず、屋敷の全体に眼を遣る。三階建ての家屋に外壁は赤茶色のタイル造り、屋敷からは円錐状の塔が突きだしている。ちょうど、鬼の角から片方を抜き取ったような感じだ。塔は三階の角部屋から直接伸びているようで、部屋の窓には真っ白なカーテンが掛かっている。玄関の門扉は鉄柵状になっていて、そこまで間口は広くない。この屋敷にしては、侘しい門構えに思えた。通用口のようなものも見受けられない。
屋敷は山の麓に建っている。道中を見る限り、周辺に住宅もなく、ここから先の道路は既に山奥に続く道だろう。麓というよりは山の入口と言った方がいいのかもしれない。
だからだろうか、今年の歴史的な猛暑を考慮すれば、ここは幾分か涼しい。なによりも暑さに慣れるほど、山から吹き下ろす風は心地よかった。
ほぼ、県境の位置である。同じ県内から来たとは言え、殆ど正反対まで来たことになる。
それでも、来た甲斐はあった。榊(さかき)家との繋がりが身近に存在したのにも関わらず、堤は今まで知らなかった。ふとした切っ掛けで判明してからは早かった。今日という日はまさしく僥倖と言える。
京介に関しても、中年に差し掛かった身体では、長い運転は堪えるらしい。普段なら精悍に見える顔つきも、今は妙に萎びている。薄紫の開襟シャツもよれよれで張りがない。この一服は長そうだ。車の窓を叩く。京介は嫌そうに窓を開いた。
「もう少し、待ってくれ」
「いや、僕だけで少し話してきます。京介さんは待っていてください」
門まで引き返し、インターフォンに向かう。なにを言おうか決めかねていると、インターフォンを押す前に玄関の扉が開いた。身構えたが、中から出てきたのは黒のブラウスに白いエプロンを掛けた、若い女性であった。
彼女は門まで来ると、スライド錠の簡単な閂を外して、門扉を開けた。
「堤様でいらっしゃいますか?」
「はい」丁寧な口調に慣れず、声が上擦ってしまう。
「はじめまして、私は乾(いぬい)と申します。こちらで家政婦を務めております」柔らかな笑顔だった。
髪は首に掛かる程度の長さで、細身だが、上背は堤と同じくらいある。女性にしては随分と背が高い方だろう。年齢に関してもやはり、堤と同じで二十歳前後に見えた。
「どうも……榊(さかき)先生は?」
「書斎におります。遠路故にお疲れでしょう。どうぞ、中に」乾は掌で家の中を示す。
「あ、はい。その前に少し」
堤が車のことを言う前に、乾が門前の車に気付く。ああ、と得心したように頷く。
「車でしたら、隣の駐車場を使っていただいて構いません。フェンスを開けましょう」乾は道路に出て、駐車スペースに小走りで向かう。
「ええ、ありがとうございます」少し大きな声を掛け、華奢な背中を見送った。堤はセダンの運転席に向かう。運転席の窓が降りる。
「家政婦がいる家というのも凄いな」京介は乾の方を振り向きながら言う。
「確かにちょっと気圧されるかもね。車入れていいって」
京介は短くなった煙草を揉み消して、車をバックさせる。堤もそれに続く。
乾は伸縮式のキャスターゲートを開いていた。錆びているのか、開きはするが、妙に大きな音を立てて軋む。別荘でしか使われないとなると、自然に建物も古びていくのかもしれない。
「あら、お連れの方がいらっしゃったのですね」車の横を歩く堤を見て、乾はそう言った。
「進之介は免許を持っていませんからね。俺はただのドライバーですよ……狼(おおかみ)京介です。よろしく」普段の彼からは考えられないほど、愛想のいい笑顔だった。堤は苦笑する。
乾の顔には、人類に対して分け隔てなく与えられているような優しい笑顔が浮かんでいた。ゲートが開かれて、セダンを駐車する。他の二台は淡いグリーンのクーペと真っ赤なボディの高級車だった。赤い車体にシルバーのベンツマークが太陽を反射する。車に詳しくない堤でさえ、値段に比例した価値が判る。
「二台とも、榊先生のお車ですか?」堤は聞いた。
「いいえ、私は住み込みではないので」
「なるほど」乾は簡潔な言葉で、疑問を氷解させる。自宅から車で通っているということだろう。改めて見れば、乾は両目の形が非対称だった。左目だけが眦を吊り上げたように少し斜めになっている。読書好きに多く、理智的な証拠といえる。
「なにか?」視線に反応してか、乾は首を傾げた。
「いえ」堤は急に恥ずかしくなった。
「……失礼ですが、お二方は共に先生のお知り合いなのですか?」来客に対する詳しい事情は知らされていないようだ。
「ああ、僕も京介さんも知り合いというわけではありません。先生の作品が好きなだけです。京介さんに関しては、本当にただのドライバーです」堤は苦笑した。電車で来るにしては、随分と不便な土地なのだ。近くの駅からタクシーで来たとしても金額は莫迦にならない。京介は高校教師をしているが、盆の時期ということで特別休暇を取っている。休暇中を利用して、車で送迎をしてもらえることになった。
「大学の教師に榊先生と親交のある方がいまして、その方の紹介で来ました」
「へえ、不思議な縁もあるものですね」乾はくすくすと笑う。なにが面白いのだろうか?
「あ、ちなみに連れもお邪魔してよろしいでしょうか」本来、招待されているのは自分だけなのである。しかし、京介にも入ってもらう必要があった。
「もちろんですとも。先生も嫌とは言わないでしょう」乾は頷いた。
堤は、既に二本目の煙草を吹かしている京介を引き立てて、榊邸に赴いた。一人で入っても話せなければ意味がない。京介には、そんな堤の生贄としての役割を果たして貰わなければならない。
内装は至って、普通であった。フローリング張りの床で、廊下が広いということもない。しかし、来客に備えてか部屋自体は多く造られているようだった。乾により、居間へ通される。居間には台所もあって、本当に普通の家庭のように見えた。
「先生を呼んできますので、お待ちください」乾は一礼して、居間を離れた。堤たちはテーブル脇のソファに坐り、待つことにする。座面が妙に沈んで、落ち着かない。
暫くして、扉が開く。最初に入ってきたのは乾で、続いて榊籐次郎が入ってくる。
籐次郎に関する記憶を引き出していく。処理は素早かった。籐次郎はソファに坐る。堤達と差し向かいの位置だ。紺の袴を羽織り、髪は銀に近い白だった。五十を過ぎても、なお精力的な執筆活動を続けている身体は意外とがっしりしている。顔は丸く、痩せたところもない。小説の著者近影と違うのは、黒縁の眼鏡を掛けていることだけだった。
「どうも榊籐次郎です。はて、あなたが堤君ですか。隣の方は?」京介はとてもじゃないが、学生には見えないだろう。籐次郎は訝しげな表情を浮かべる。
「狼京介です。高校教師をしています。自分は堤君の送迎係でして、引率のようなものです」慣れない呼び方をされたので、京介の方を見る。京介は視線を受け、困ったように笑った。京介は保護者でもなければ、堤の教師というわけでもない。ただ、籐次郎にはそう思ってもらう方が話しやすいのだろう。肩書きもなくては、案外と会話は続かないものである。もっとも名乗ったところで、高校教師と大学生に接点などない。
「そうですか、教師をされている。珍しい苗字ですが、オオカミはどういう字で書くのですか」京介は恥ずかしそうに頭を掻く。弄っているわけでもないのだろうが、髪はぼさぼさの巻き髪だった。こういう髪質だと、むしろ短い髪が似合わないのだ。
「ウルフの狼です。野蛮な苗字でしょう。生徒に対しても苗字禁止を発令しているくらいでして。ですから、名前で呼ばれる方が抵抗がありません」照れ隠しも行き過ぎると、大仰な饒舌になるのだろう。堤は苦笑する。
籐次郎はそれが大層に面白いようだった。乾も抑えるように笑う。
「いえいえ、いい名前と逸話だと思いますよ」好々爺然とした表情で、納得したように頷くと、籐次郎は横に控える乾へと顔を向ける。
「十和子さん、コーヒーを。堤君たちの分も」乾は頷いた。十和子という名前のようだ。
「ブラックでよろしいですか?」
「はい、どちらもブラックで」堤と京介は頭を下げた。
「そういえば、昼食はもう済まされましたか」籐次郎は言った。昼過ぎという時間ではあるが、運転続きで食べていないのは確かだった。
「まあ、食べてはいません」堤は正直に言う。
「では、用意しましょう。軽食程度ですが」
申し出をありがたく受けることにした。待っている間に、榊籐次郎の著作に関しての感想などを他愛もなく話していると、間もなく食事とコーヒーが運ばれてくる。
「失礼いたします」乾はそう言って、テーブルにコーヒーと皿を並べていく。トーストに生ハムのサラダという、なんとも品のいい組み合わせだった。
閑話休題。昼食が運ばれてくると、屋敷の主人を筆頭に黙々と食事が続いていく。瑞々しいサラダに生ハムの塩気がとてもよく合う。薄いトーストも自分好みだった。なによりもここまで来て、こんなにも美味いコーヒーが呑めることに感謝した。
「美味しいコーヒーですね」
乾は微笑み、頭を下げる。
堤はブラックが好きだったが、隣に坐る京介の笑顔はぎこちない。彼はブラックが苦手なのである。各々の事情を鑑みて、ブラックを二杯頼んだのは堤の采配であった。籐次郎はコーヒーに煩いと有名である。郷に入れば郷に従えとするのが賢いやり方だろう。
京介の犠牲もあり、籐次郎の機嫌はいいようだった。食事も済ませ、思い出したように籐次郎は家政婦を見る。
「綾子はもう済ませたのかい」
「はい、つい先程」乾は頷いた。彼女は十和子のはずである。綾子は別の人物だ。視線に気付いたのだろうか。籐次郎は快活に笑う。
「綾子というのは私の娘です」
「先生に娘さんがいたとは知りませんでした」家族構成などは特に公表されていない。
「ええ、まあね。外から塔が見えたでしょう」籐次郎は天井を指差した。
「はい」
「塔の下はそのまま部屋になっているんですよ。別荘を建てる際にも、綾子の部屋にするつもりで建てましたからね。少し熱が籠もりやすいのは難点だが、気に入ってくれているようです」
「塔の姫ということですか……いや」京介は失言に気付いたようだ。籐次郎の年齢から考えて、彼の娘というと、既に結構な歳の可能性が高かった。籐次郎から話したこととはいえ、あまり突っ込んで聞く気にもなれない。屋敷の主人は気にせず続ける。
「避暑のために毎年やってくるが、こちらは気候がいい。窓を開けているだけで風が入ってくる。山が近いので、網戸だけはしっかりしたものにしないと虫が厄介だがね」
一応は空調機器も設置されているようだが、今は稼働していない。居間の窓を少し開いて、風を入れているだけだ。それだけで真夏だというのに、汗も掻かない。木陰で眠るような、非常に心地よい落ち着きがあった。