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『感傷よりも青い月』7

「犯人は未だに捕まっていません。真夏の犯行だというのに、犯人はフードで顔を隠していたんです。真夏にフードも目立つでしょうが、目撃情報は乏しかった。しかし、決定的な証人もいなかったわけじゃありません」

「証人ですか」

「綾子さん自身が犯人の顔を見ていました。事件後も彼女は顔を憶えていたんです。なぜなら、犯人を家に侵入させる切っ掛けになったのが綾子さんだったんですから」乾は綾子の眼が閉じられていることを確認する。ゆっくりと続きを語り始めた。

「綾子さんの下校途中に男が声を掛けてきた。フードを被っていた男を綾子さんは不審に感じたそうですが、両親の知り合いだと思っていたと、事件後に筆談で証言しています」

「事件のことをそんなに詳しく仰ったんですか?」あまりにも詳細な説明に、思わず訊き返す。まさかといった感じで乾は首を振る。

「申し訳ありません。最初に言うべきでしたね。私が事件のことを聞いてから、個人的に調べたことも混ざっています。当時は大々的に騒がれましたから、資料になるものは沢山残っていましたし、調べるのにも苦労は掛かりませんでした。もちろん、明確な真偽は判別できません。先生に質したこともありませんから、すべては話半分です」

「それで構いません。腰を折って申し訳ない、続けてください」乾に先を促した。

「疑念は持てど、結果として綾子さんは犯人を家に上げてしまった。家の敷地は広く、隣家とは距離があったようです。玄関を開けて、犯人と一緒に家族の待つリビングへと向かいました。不幸にも、その日は両親が二人とも家にいた。綾子さんの眼の前で、犯人が隠し持ってたナイフで刺されたんです」

「刺殺されたんですか?」今回の事件と同じだった。

「そうです。十年前の事件では金品も盗られておらず、現場に留まっていた綾子さんは怪我もなく無事でした。怨恨に起因する犯行だろうと捜査は進められましたが、犯人に繋がる情報は得られなかった。尋常の事態ではありません。両親を刺殺されたショックで綾子さんは声を失いました。そして、綾子さんは犯人の顔を見ていたようなんです。事情聴取でも、知っている素振りではあったようです」

「しかし、捕まらなかった」

「声を失ったのも一因ではあったのでしょう。なによりも綾子さん自身が、事件の記憶に触れていくことを拒んだのです。警察も犯人を捕らえるためにとはいえ、無情なこともしたのでしょう。先生は綾子さんを養子として庇護下に置くことで、追求や詮索から守ろうとしたんじゃないかしら」乾は話し終えると、長く息を吐いた。人形のように眠る綾子を見下ろす眼は、疲労を証明するように瞬く。綾子の心労を慮る彼女こそが、屋敷内でもっとも暗澹たる思いであることは明らかだった。真実を計れぬが故に、疑心暗鬼からも逃れられない。不透明な霧中を歩いている状態だ。彼女の迷いを晴らしてやらねばならない。

「――ありがとうございます。先生が亡くなってすぐに、凄惨な事件の内容を話させてしまいました――けれど、無駄にはならないんじゃないでしょうか」

「まさか、なにか関係が?」乾の声は期待と怯えが混じり合って、妙な具合に裏返った。話しを続けようとした矢先のことだ。俯きがちだった京介が立ち上がった。

「どうしたんですか」驚いて、堤は訊ねた。京介は緩慢な動きで首を振る。

「なんでもない、気分の問題なんだ。一本吸ったら戻ってくる。こういうのはどうも苦手だ」顔は真っ青だった。呼び止める間もなく、煙草を片手に部屋を出て行った。まだ京介にはいて欲しかったのだが、仕方がない。改めて、乾に向き直る。綾子は眼を閉じたままだ。

「京介さんはいませんが、時間もないので続けさせてもらいます。一つだけ質問をさせてください。先生を刺した包丁はこの家にあったものですか」

「……しっかりと見たわけじゃありませんけど、ええ、この家にはなかったんじゃないかしら」首を傾げて、なにかに思い至ったように乾は頷いた。

「つまりは屋敷の中に包丁自体がなかったのですね?」

堤は今回の事件に関して、ある一つの仮説を思い浮かべていた。意想外な推測が脳裏を過ぎる。昨日、廊下で交わした会話を思い出していた。それは過去から流れ着いたものだ。

「はい! 屋敷には、不思議なほど調理器具というものがありませんでした。だって、包丁もないんですから。そうです、凶器は屋敷にはなかった。持ち込まれたものということですね!」乾は興奮したようにまくし立てる。

堤は首を振る。「残念ながら、証拠としては脆弱です。包丁ぐらいなら隠れて用意することは簡単でしょうからね」屋敷にある包丁の有無で、外部犯かどうかを断定することは難しいだろう。問題は違うところにあった。

「問題は屋敷に包丁がなかったことです」

「包丁がなかったこと? 凶器のことなら、最初から屋敷に包丁はなかったですけど?」

乾の指摘は置いておく。事件を振り返りながら、説明を始めた。

「綾子さんが意識を失っていた。その理由が僕には判りませんでした。それにしても不思議なのは、意識を失った綾子さんが生きているということです。同じ部屋で殺害された先生がいて、犯人がいて、綾子さんがいた。犯人の姿を綾子さんは認識できたでしょう」

「覆面をしていた可能性もありますし、薬で眠らせたのかも」乾から素早く指摘が飛ぶ。

「だから殺されなかった。顔を隠した犯人が、見られていないと判断したのでしょう。犯行直後の危機を回避するために、一時的に意識を失わせた可能性もあります。そして、殺された先生と意識を失った綾子さんを置いて、部屋を後にして、鍵を掛け……」

「――待って、違う。手順が前後している。部屋に鍵を掛けるのは、綾子さんにしかできないというわけですね。部屋には内鍵しか存在しない――綾子さんの意識は別の理由で途切れた」乾は納得したように頷く。

「特殊なトリックなどを用いていない限りは、綾子さんが鍵を掛けたとしか思えません。犯人がトリックを用いたとしても、こんなにも歪な密室にするメリットは薄すぎるんです。綾子さんを犯人にしたいなら、意識のない彼女を部屋に置いていくだけでいい。鍵なんて掛けてしまえば、トリックだと教えるようなものです。死体と一緒に籠城する犯人なんていないし、必然性が見当たらない。じゃあ、この密室は誰にとっての必然であったか?」

堤は一拍置いた。特に反論は出ない。沈黙が先を促す。

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