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『最高の図書館』2

第一章 我ら偏執的読書家はつつがなく



本を読む。たとえば意味もなく街を歩いたり、積み重なった食器を黙々と洗う。自分の好きなペースで走ったり休んだり、眠たければうたた寝をする。あまりにも自然で忘れそうになるが、それらは生活に必要なものであり、欠かせば少し落ち着かない。普遍的な読書とは斯くして続けられていく。
純文学も大衆小説も変わらない。読書というのは負荷が掛かる行為だと錯覚されている。けれど、戦前に立ち返ってみれば本を読む敷居はなおさらに低く、日常の余暇として確実に根付き、消費されていくものだった。本を読むのが能動的だとして、かつては読書も娯楽と呼ぶに差し支えはなかった。状況に翳(かげ)りが差したように思うのは、懐古故だとは侮れない。識字率だけでは見通しが立たない。文章を咀嚼するにつつがないということは、察するに失われた技術(ロストテクノロジー)に等しいのだ。あいつもこいつも文脈を失って、氾濫した言葉と制限された文字数に白痴化した文字が躍る。言葉の持つ力は無際限に圧縮され単純化する。国語が停滞するということは、知識や法律が国語で紡がれる以上は思考が停滞するということだ。氾濫した情報に溺れるが心地良い。積極的な働き掛けなど必要でもなく、流されるだけで充分なのだろう。今や受動的なものを娯楽と為し、能動的なものを教養と呼び習わす悪しき時代に突入しつつあった。

しかして、我ら偏執的読書家はつつがなく本の虫であり、無教養の海に埋没していく。

「ねえ?」

本を読む。なにを考えながら本を読んでいるかなんて判らない。もしくは小説を読んでいるのかなど意識もしない。物語に没頭しているとも言い切れない。
感情移入とも違う。自分が足りないことを自覚したとき、本を開いて頁を捲っていく。
そして、本を閉じるそのときまでは不明の不足を担保してくれるのだ。だからこそかけがえのない行為だが、騒々しい街角ではそれも一時的なものでしかない。

「長田(ながた)?」
遠慮がちな声が上のほうから聞こえた。小説を読んでいた身体は、読書に必要な器官以外の働きを鈍くした。音に対する認識は遅く、声もどことなく遠い気がする。無視するのもかわいそうだと思ったから、頭一つ分は高い彼女の視線を受け止める。同じように本の頁を開いていた。
「これなんて読むの?」
突如として顔を覆ったのは漫画本の頁だった。これを読んでくれということか。歴史物のようで、鎧を纏った武将らしき人物が叫んでいる構図だった。台詞を読んでいくけれど、すべての漢字にはルビが振られている。漫画はそうだったかと乏しい記憶を振り返る。なにが読めないのかと訝しんで、一つの可能性に思い至る。絶望的な気分が去来して、その感情を乗せたままに近付けられた顔を見遣る。
「瑞希(みずき)さんは平仮名が読めなかったり……」
「絶対に莫迦だと思ってる!」
瑞希は身長差を活かして僕の頭に手を遣る。心外であるという意思表示とばかりに髪の毛をわしゃわしゃと掻き乱される。叩かれるよりは実害がないことを見越し、されるがままに嵐が過ぎ去るのを待つ。ぼうっと頁の全体を眺めていると、ルビのない漢字に気が付いた。
「背景の幟(のぼり)?」                      「うん」
描かれている幟には文字が入っていて、当然のように背景の一部にルビはない。
「幟が読めなくても、物語は追えるけど」
「でも、気にならない?」
「まあ、そうかも」
知らない漢字や読めない文章に出会しても、一々辞書を引いたりはしない。けれど、見ない振りをするのは微少の罪悪感がある。道端で石に躓き、後続への配慮を無視して走り去るようにさりげなくても、それは故意だ。
「開闢(かいびゃく)って読む」
「かいびゃく」間の抜けた復唱が続く。
「意味は……」
「大丈夫!」
「そう……」
「ふーん」辻褄合わせの感心は妙に空々しかった。
瑞希は途端に興味を失くすと、漫画本を胸の前に戻した。少し窮屈そうな制服が羨ましい。三年間に亘っても成長が明らかな証拠だからだ。
僕と瑞希は同じ高校に通っている。学年は瑞希のほうが一つ上だった。三年生には大学受験が待っているはずだけれど、目前の人物は受験を忘れたような素振りで暢気に漫画を読んでいる。自らも小説を読んでいる手前、心配を表に出すのは憚られた。
「ねえ」頁を捲ってはいるが、瑞希はまだ雑談を続けるつもりらしい。
「うん」
「今までに読み切った本の数って覚えてる?」
「急になんで?」
「理由はないけど」
「覚えてない。数えてるわけじゃないし」
家に置いてある書籍は教科書が主であり、小説を購(あがな)って読むことは多くない。高校生が使える金は限られていて、アルバイトの縁もなかった。書店と図書館に足を運び、新書や古本に手垢を残していくのは畢竟の定めと言える。
「漫画って楽だよね。巻が進んでも表題が変わるわけじゃない」瑞希は頁から目を離さずに言う。
「二巻、三巻と教えてくれる」
「棚に並んでいるのを眺めると統一性があって圧巻だよね」
洒落かどうかの判断も付かない。横から注がれる視線を無視するように、小説の続きを読む。店内には漫画本の棚もあり、瑞希はわざわざ漫画を持ち出し、僕の隣で読んでいた。新書も古本も扱っている関係からか、立ち読みを咎められることはなかった。制服姿の男女が並んで立ち読みしているのも、不健全にありふれた光景ではあったのだろう。
店内には知らない曲が流れていた。歌詞を置き去りにしたメロディーは主張点を履き違えていて、歌でさえもBGMでしかなかった。けれど、僕は書店に流れる音楽が嫌いではない。
物語の続きを追って頁を捲る。過度な静寂はいたずらな緊張を生む。通り抜けていくだけの音はフィルターの役目を果たし、機械的に理性と感性を載せていく。

「寒さは確実に人を怠惰にするよね」掌を擦り合わせて瑞希は言った。
「元々が怠惰な人間からすれば、寒さで目が覚める気分だけど」
書店を出ると、律動(リズム)ではない本来の騒々しさが耳に付いた。凍えていても人は外出してなんやかんやとやっているものであるから、静かな日というのも正月ぐらいしか思い浮かばない。活気があると宣えば聞こえはいいが、侘び然びがなければ思慮や分別の入る隙間もないようだ。訝しむことを忘れては、熱に浮かされて見えないものばかりを見る。
静かな人々とて内情は孤独に道を歩いている。冬の素早い日没は夜を厳かに、寒風に吹かれては身体が震えるのを両手で抱き締めた。望んだ因果と信じてはいるが、鉄のように芯まで冷えては自信も揺らいだ。だから一人ぐらいは連れ添う人間がいても許されるだろう。
「どうしたの?」
瑞希はコンビニで買った肉まんを熱そうに頬張っていた。無条件に憎らしく、底抜けに長閑だった。
「見てると腹が立つ」
我ながらDV男みたいな発言だと思ったが、瑞希はきょとんと首を傾げた。
「腹が減ったの間違いじゃなくて?」
「腹が減っているときに隣で食べられると、むかむかするって話し」
「なるほどねえ、理不尽だ。長田も買えばよかったのに」
「無駄遣いは厳禁だよ」
「あげようか?」
「いらない」
現金は厳禁という言葉を吐き出したい衝動に駆られる。内心の葛藤を自分だけの海に沈めて、必死に意識の埒外に追い遣る。
普通よりも体格が良く、上背もそこそこにあったが、瑞希は部活に執心していなかった。文化系のなんらかに所属しているのかもしれなかったが、活動の実態はないようだ。
同じように僕も部活動とは距離を置いていて、結果として無縁だった。活動を強制されない高校だったのは純粋に利点であり、助かった気もする。空白の放課後には本を読める。
「じゃあ」
住宅街を少し進んだところで瑞希に手を振った。決まっているわけじゃないけれど、いつもそうやって別れた。最後まで一緒に帰るわけにもいかない。
「さよなら」
手を振って、瑞希は走り去る。走らなくてもいいのにと思わなくはないが、逆の立場なら僕も同じようにしたはずだ。
つまりは気不味いからなのだけれど、他にも適当な言葉を探してみたい気がする。

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