『最高の図書館』3
二
住宅が建ち並ぶ通りを抜けて、空の延長みたいな坂道を昇る。途切れた坂を横道に入ると、L字になった道の角に図書館は建っていた。
住宅に紛れて現れる図書館は、狭い敷地の中にある。高校から程近い場所にも図書館はあり、分館に区分される施設がここだった。
僕が住んでいる辺りには市区町村の付かない大字(おおあざ)の地名が残っている。大字とは要するに字(あざな)であり、口語としての呼び名の地名を引き継いだものである。土地の字だ。
本館は汎用的な市立図書館の名称を持ち、分館には地域の大字である三郷(さんごう)を冠する。東三郷分館が正式な名称ではあったけれど、本来の地名に東は余分な忖度だったのか、館内の職員と利用者に於いても、通称は三郷分館で合致しているようであった。
平日の図書館は意外と遅くまで開いている。本館の蔵書には遠く及ばないけれど、高校から歩いて数分の本館を自習に使う学生は少なくない。自分で言うのもおかしいけれど、学生に囲まれて小説を読みたくはない。
土地の狭さに抗うように三郷分館の外壁は縦長である。紺青の壁も色合いとは裏腹に派手な気がした。あえて夜に沈没するような建物が昼間には目立って仕方ないけれど、日が沈めば間もなく、藍色の残る夜気にさえあっという間に存在感をなくす。
味気ない硝子の扉を抜ける。入ってすぐに図書館ではなく、まずはロビーからだ。地域の歴史に関する展示が利用者を出迎える。右手には警備員の詰所(つめしょ)、入口から正面には二階へと続く階段が延びていた。二階には教室として貸し出されている部屋もあったが、どうでもいい。図書館機能としての玄関は、階段の裏側に隠されたように続く通路の突き当たりに位置していた。
図書館面積の半分を占有しているかのようなロビーに人の姿はない。特段、見る価値もないからであり、一時間も展示を眺めていれば、詰所から出てきた警備員に声を掛けられるだろう。なのでそそくさと図書スペースに向かう。
突き当たりの扉を中に入る。図書館内は然程に広くなかったが、空間の半分は吹抜けになっており、残り半分は二階層に書架を設けていた。面を取れない分、上下には広かった。積み上げていくだけなら土地も必要ない。床には灰青色のカーペットが敷かれている。外面はともかく、内装の配色は図書館らしい。カーテンだけは外壁と同色の紺青だったが、常に閉じており、外光を遮断するという意味では効果的だった。
館内に入ると、振り返る人影がある。黒い綿ズボンに、ピンクのセーターとオレンジのエプロンという、明るい服を着た女性だ。
若い女性司書は無表情にこちらへ向かってくる。痩せぎすな体型に銀縁の眼鏡を掛けていた。一見すると勉強に青春を捧げたような趣(おもむき)がある。明確な意義を伴った足取りは、僕の前で止まる。
「来ないなら判るが、なぜ遅いんだ?」
館内ということで声量は落としていたが、却って威圧的な効果もあり、低い声も相俟って恐ろしい心地がする。初対面であれば、言葉の出所を疑っただろう。
「ああ……はい?」
「前は違ったな? もっと早かった。学校行事に目覚めたのか」
声の抑揚には乏しかったが、語尾に至る発音は乾いた鼓のように力強く聞き取りやすい。
「部活動に明け暮れるぐらいなら、川上(かわかみ)さんを倣って書痴(しょち)になります」
「見上げた夜の種族だ」
川上さんはまだ二十代前半だけれど、言葉への反動が非常に強い。苛烈にして類例を見聞せず、意識的でないことを極端に排斥する。快刀乱麻な人ではあるのだけれど、対象が己でないとは限らない。緊張と弛緩を繰り返す会話は慣れていても疲れる。
「真夜(まさや)だからですか?」川上さんの譬(たと)えが理解できない。
「君の名前は関係ないよ。真夜が書痴であればということだ」
「はあ……姫野(ひめの)さんは?」
姫野さんの定位置――貸出受付にも姿がない。川上さんは二階へ目を遣る。
「二階だ。個人的な知り合いが来ているらしい」
「知り合い?」
「意外?」川上さんは首を傾げる。短い髪が揺れる。
「いや……いてもおかしくないと思います」
「もちろん……おかしくない。用事が終わるまで待つことだ」
発言には気を付けないといけない。川上さんは無人の貸出受付に坐ると本を開いた。姫野さんがいないからだろうが、受付に坐っているのは珍しい。受付に坐る顔に少し嬉しそうな面差しを読み取る。多分に自身の願望が混じる先入観だった。
もう少し観察したい心境ではあるが、当の本人に見咎められる予感を覚えたので、潔く図書館奥の書棚に向かった。川上さんが捲る本を横目で盗み見る。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』だった。
読んだことはない。けれど、川上さんが読む小説ならば読んでみようと思える。この世に数多と並べられる書物の、どれを手に取るかは読者に委ねられている。しかし、自由とはたとえるならば、見渡す限りの砂漠に単身で放り出されるようなものであり、道標(どうひょう)のない環境は遭難必至となりうる。
せめて指標には頼りたい。指標とは先人の歩んだ道であり、または残した手垢である。信頼ある人が手に取った小説は、追っていくように誰かが読む。多くの手を重ね、読み継がれた小説には薄(はく)が付く。数多の海を浚う書痴がいればこそ、可能となる事業だろう。
そういうわけで、司書の川上さんに対して、僕は絶大な信頼を置いているのだが、三郷分館には彼女を超える書痴、もとい司書がいる。僕は、彼が選んだ本を読むためにここに来るのである。
一階の書架を巡る。時間を潰すだけだったので、気になる本を捲っては軽く読んでみる。斜め読みに抵抗がないのは、自分の本を重ねていないからだとつくづく思わされる。瑞希(みずき)との会話ではないけれど、僕は読んだ本を数えない。私的な蔵書がないからでもあるし、収集することが目的だとしたら、最初から図書館にも来ない。
以前は学校が終わればすぐに三郷分館へと足を運んでいた。小説を読む以外の日常を見出さなかったからなのだが、今は違うのかと自問自答しても、返ってくる声に変化は見受けられない。
僕はなにも変わらない。理由は別にある。図書館に行かず、書店で立ち読みをする必要が生まれた。三郷分館にも漫画本は置いてあるけれど、種類には乏しかった。そして、彼女は小説を読まなかった。
斜め読みを続行する傍らに囁くような声が聞こえる。どうやら二階からの声だ。二階も狭いながらに書棚が並んでいる。天井に阻まれて微かな声だったが、見当は付いた。
前の書棚から本を抜き出し、館内の吹抜け部分に出る。館内奥の窓際に位置するソファに腰を下ろす。読む気もない本の頁を開いた。
視線だけを頁に落とすが読んではいない。意識を耳に働きかけて集中する。二階の声はやや鮮明になる。声は二人分、片方は姫野さんの声だ。柔らかな優しい口調で誰かと喋っている。声を抑えているせいか、上手く聞き取れない。もう一方の声には聞き覚えがなく、淡々と醒めたような男のものだった。抑揚のない声は川上さんと類似しているが、力強くはない。冷たいのも違う。興味がないという具合だった。
盗み聞きする価値はないかもしれないが、姫野さんの知り合いというのが気になった。
姫野さんも三郷分館の司書の一人だ。いつも受付に坐っていて、休館日の月曜以外は常にいる印象があったし、実際に事実だろう。労働時間的に公務員なのかを疑ってしまうけれど、本人曰く正規の職員であるらしい。きっと働いている時間と趣味の時間が混在しているのだろうと、僕は半ば本気で信じていた。
良くも悪くも館内での立ち居振る舞いしか知らない人物である。普段とは異なる姫野さんが垣間見えるかもしれないと好奇心が首を擡(もた)げたのだが、徒労に終わりそうだった。
途切れ途切れに聞き取れるぐらいで、会話の内容を推察すること叶わなかったからだ。聞き耳を立てる趣味はあっても、二階に行ってまで覗き見る身体的労力は惜しむ。探偵を諦めて眼前の本に取り掛かる。街並みに関する考察や、生活基板や国民性から由来する街の設計理念に関することが書かれている。適当な選書で気乗りもせずに頁を捲っていたが、読んでみると意外に面白かった。