創作BL 在りし日の蜜月
(シリーズものですが単体でも読めます。シリーズへのリンクは最後に貼ってあります)
原稿が終わらねえ。原稿が終わらねえ。原稿が終わらねえ。
焦りが俺を苛立たせる。締め切り?それはもうとっくに無理を言って伸ばしてもらった後だ。伸ばしてもらったのにも関わらず、全く間に合っていない。
吸っていた煙草を灰皿に押し付けようとすると、灰皿は煙草の吸い殻で完全に埋まっており、死体の山のようになっていた。
これだけ吸ってるのに書ききれんとは。己の遅筆っぷりに思わず笑ってしまう。
時計を見る。昼の一時。今日はまだ朝飯も昼飯も食っていない。起きて即、原稿。動くのは便所に行く時と、水分補給をする時だけ。
隣の部屋には同じく作家である紫苑(しえん)がいるはずだが、あいつの煙草の匂いがしてこないってことは、紫苑は昨日抱えてた原稿をすでに終わらせているってことだろう。あいつが煙草を吸うのは文章を書いてる間だけだ。
あれはえらく筆の早い奴で、本人曰く「締め切りに追われることはほとんど無いです」だとか。全く、頭に来る。紫苑は速筆な上に、今や何を発表しても文壇全体から注目されて賛否両論巻き起こるのだから。ちくしょう。あいつの最新作、読んだら絶対にこき下ろしてやる。(だが、紫苑は俺を目指して作家になったそうで、俺に作品を読まれること自体が奴にとっては非常な喜びに値するらしく、褒めても貶しても目を輝かせて喜んじまうので、多分こき下ろされても喜ぶだけだろう。調子が狂う)
時計から原稿に視線を戻す。さて、俺が今こんなに急いでいるのは、単純に締め切りが迫っているから、だけではない。締め切り自体は明日の朝だから、徹夜で書けば間に合うかもしれん。問題はその後。出身大学の客員教授をやり始めた俺は、英文科の後輩ども相手に短期間の講義をせにゃならんことになっている。しかも明日から!!授業が明日に迫っているのに、その準備が何も出来ていないってのはさすがに焦る。この原稿を早く終わらせて、早く準備に取り掛かりたい!
なかなか次の文章が思いつかず、舌打ちをしながら無意識に頭をがしがしと掻き毟る。次の煙草を取り出そうと手を伸ばした時、部屋の戸を叩く音がした。
「公賀先生、入っていいですか」
「……ああ、いいぞ紫苑。この死地に足を踏み入れる覚悟があるならな」
戸がすす、と開いて、不思議そうな顔をした紫苑が現れる。紫苑はいつも通り髪の毛がぐちゃぐちゃで、まるで寝起きだ。何度注意しても髪を整えないので、諦めた。せっかく端正な顔してやがるのに、髪型のせいで芋臭さが尋常じゃない。勿体無いやつ。
紫苑は俺の周囲の荒れ具合をぐるりと見て、俺が言った意味を理解したらしく、ああ、と小さく声が漏らした。
「先生、また書けないんですか」
「うるせえ。見りゃ分かんだろうが」
「すごい紙くずの量……あ、灰皿もすごいですね。僕、捨ててきましょうか」
「頼む」
紫苑は静かに歩いてきて、死体の山が積み上げられた灰皿に手を伸ばしてきた。着物から伸びる白い腕を視界の隅に捉えながら、俺は目の前の原稿に今一度向き直る。
……が、紫苑は灰皿の縁に触れたまま動こうとしない。なんだ?と思い右斜め後ろを見やると、紫苑は俺の書きかけの原稿を、瞳孔の開いた目でじっと見つめていた。
これはこいつの癖だ。本を読む時、書く時、目が黒々と暗く光る。初めて見た時はその不気味さにギョッとしたもんだった。単に集中してるだけだと分かれば、全く恐ろしくは無いが。
「おい、紫苑。完成してからゆっくり読めって」
「……先生、それ、新聞に連載してる話ですよね」
「ああ、そうだ。なんか文句あるか」
「いえ、逆です。僕、先生の文章は全部読んでますけど、この話がそういう展開になるのは予想できませんでした。面白いです、とても」
紫苑はいつもの瞳に戻って、穏やかに笑いながら俺にぴったりくっつくように腰を下ろした。至近距離。紫苑の潤んだ焦げ茶の瞳に、俺の顔が反射して映っている。
その綺麗なツラから、思わず目が離せなくなった。
「やっぱり僕、先生のお話が好きです。愛してます」
紫苑は、頰をほのかに染めながら、目を細めてそう言った。
……ほら。ほらほらほら。この、腹が立つくらい作家として有能な後輩は、俺の前だとこんな可愛い顔をして、こんな可愛いことを言いやがる。ムラッと来て思わず紫苑の薄い唇に手を伸ばしそうになるが、それは堪えた。いくら可愛い顔をされても、今は手を出すわけにはいかない。
「……可愛い顔しても、何も出せねえぞ」
「僕の顔、可愛かったですか?」
「うるさい」
「先生になら、可愛いって言われてもいいです」
紫苑は俺の右腕を掴んで、やや興奮気味に俺を揺すぶり始めた。
「先生、早く書いてください。僕、一番最初に読みますから。絶対一番最初に読みます。お願いします。早く読みたいです」
「分かった、分かったから、先に灰皿の中身捨ててきてくれねえか。お前に見られてると書きづれえ」
「やった。あ、そうだ、灰皿を洗うついでに何か食べ物も持ってきます。先生、今日何も食べてらっしゃらないでしょう」
「おう」
「やっぱり。ちょっとだけ待っててくださいね」
紫苑はにこにこしながら灰皿を持って部屋から出て行った。軽快な足音がどんどん遠ざかっていく。
……俺もめっきりあいつに弱くなってしまったもんだ。紫苑のあの熱に潤んだ目を見ると、どうにも理性が働かなくなってしまう。最初に見た時から、やけに独特な色気のある美男だとは思っていたが、まさかその色香の矛先が全て俺に向かっていたとは。同居するまで全く知らずにいた。
初対面は、出版社の飲みの場。紫苑は俺の目の前で見事に酒に酔ってぶっ倒れて、介抱しつつ家まで送ってやったら、今を代表する新進気鋭の人気作家が住んでいるとは到底思えないとんでもないボロ屋が目の前に現れ、あまりの汚さに見かねて
「うちに空き部屋がある。俺と共同生活を送るという苦行に耐えられるんであれば、その空き部屋をお前の部屋にしてやってもいい」
と声をかけたら、紫苑は大いに喜んだ。そういった経緯で我が家に紫苑小僧が移住してきてから、三ヶ月ほどが経過したわけだが、気づいた時にはすでに俺は紫苑の美貌に骨抜きにされていて、そして、恋仲になっていた。一人で住むには大きすぎる家だと思っていたが、紫苑が来てからはそれも丁度良い。まるでめおとのような暮らしである。
紫苑に美味いものを食べさせたくて、仕事を多めに取りに行ったり、ずっと断り続けていた大学の客員教授の話を受けてしまったり、なんだか俺らしくないことをし始めてしまったのも、全ては紫苑が家に来てからの話だ。
柄にも無いことをやっているという自覚はある。が、紫苑の顔を思い浮かべると、なぜか力が湧いてくるのだ。
……俺は、自分で思っている以上に、紫苑にどっぷり惚れ込んでしまっているのかもしれない。
目の前には途中の原稿。そして、そいつを早く読みたい、とせがむ、年下の恋人もいる。
やることは一つだ。
俺は煙草に火をつけて、鉛筆を強く握り、再び言葉の世界へと深く深く潜り込んだ。
予定していた講義の日数を全て終え、くたびれながら帰りの電車に乗り込む。時刻は午後四時。五時までには最寄りに到着できるだろう。少しだけ眠ろうと思い、車内の揺れに身を任せながら目を瞑る。
最寄り駅に着いて改札を抜けると、駅舎に寄り添うように綺麗な男が立って、こちらを見ていた。随分個性的な髪型だが、あれがあの男の常だ。男は俺と目が合うと、表情をふわりと緩ませた。
「先生、おかえりなさい」
「待ってたのか、紫苑」
「はい。今日で講義も終わりだとおっしゃっていたでしょう。先生、お疲れのようだったから、家まででも荷物持ちになれないかと思って」
「なんだ。そんなこと、お前はしなくていい」
連れ立って、夕暮れ時の駅前の広場を歩き出す。紫苑はほとんど手ぶらで、所在無さげだ。
「先生、やっぱり僕、荷物持ちます」
「やめろって。お前は別に俺の弟子でも奉公人でもねえんだから、そんなことしなくていい」
「だけど……」
商店街に入った。子供たちが夕焼けで朱色に染まった地面に図形を書いて、飛び跳ねて遊んでいるのを横目に眺める。そのすぐ近くの肉屋の前で足を止めると、紫苑は俺に少し遅れて立ち止まった。
「紫苑、どれ食いたい」
「え?」
「お前が食いたい肉を買おう」
「えっと、じゃあ、これで」
「分かった。大将!この肉を頼む」
肉屋の大将が重さを計りながら肉を切り分けているのを、二人で静かに眺める。紫苑が遠慮がちに口を開いた。
「先生、あの……」
「お前が肉好きなのはとっくに知ってるんだよ。買った肉はお前が持ってくれ。家まで無事に運んでくれよ。これで手持ち無沙汰じゃなくなるだろ」
「僕がお金出します」
「いいんだよそんなこと。俺がお前に食わせたいんだから」
大将が肉を包んで差し出してきたので、肘でつついて紫苑に持たせた。その間に俺は金を支払う。大将の毎度あり!という声に手を上げて返しつつ、その場を離れた。道の向こうに広がる夕焼けが綺麗だ。
「先生、ありがとうございます」
「さっきも言ったろ。俺がお前に食わせたくて買ったんだから、礼なんかいらねえよ」
紫苑の頭をほんの少し撫ぜる。夕日に照らされていても、紫苑が顔を赤らめたのが見てとれた。
「あの、先生」
「なんだ」
「好きです」
周りの人間には聞こえないであろう、小さな声だったが、俺ははっきりと聞き取った。隣を見ると、紫苑は肉の包みを大事そうに胸に抱えながら、俯きがちに歩いている。その横顔が幼い子供みたいで、胸がきゅっとした。接吻したくなったが、それは家に帰ってからのお楽しみだ。
「可愛い顔しても、これ以上何も出ない……と言いたいところだが。俺の前では可愛い顔してろよ、ずっと」
「はい」
「お前がそうやって可愛い顔してくれてるだけで、俺は色々頑張れるんだからよ」
「はい」
もう一度紫苑の髪を軽く撫ぜる。紫苑は照れたように控えめに笑った。
恋人の笑顔以上に、疲れに効くものはないーーそう思ってしまった自分があまりにも自分らしくなくて、ついつい笑ってしまう。
でもまあ、こんなのも、有りなんだろう。
俺たちは眩しい夕日に向かって、二人並んで歩き続けた。
あとがき
こちらの創作BLシリーズのお話として書きました。良かったら最初のお話から読んでみてください。
ここまで読んで頂き、まことにありがとうございました。
ありがとうございます!生きる励みになります。