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結果より過程を見る難しさ

先日ツイートした事を少し絡ませた内容ではあるが、まだ短い人生しか学んでいないであろう私であっても『初めの第一歩』は本当に大事にした方が良いと思う。


ほら、だるまさんが転んだでも大事じゃん、「はじめのだいいっぽ」。


え?知らない?・・そっか、地域性があるからね。まあそんなことはいいんだ。



色んな言い方が出来るが、

「出来た・出来なかっただけを見ないで、頑張った所を見て欲しい」とかだろうか。


結果は目に見えて分かるもので、過程はやった本人が一番分かるもの、つまり他人には見えにくいものだからである。

社会に出ると、大人である私達は結果を求められる。○○大学を卒業した。資格がある。○○が出来る。○○で勤務している。

誰もが見て分かる努力の「結果」である。ステータスだともいえるかもしれない。

あなたの事を何も知らない他人でも、「○○大って賢いよね!すごい」とか、各々自分の知っているレベルと比較してあなたを「結果」から「評価」するだろう。それが他人が見ているあなたの第一印象の一部であり、像にもなりえる。努力して結果を出したあなたが周りから賞賛を受けて、何も悪い気はしないであろう。


勿論それは立派なことだし、努力した結果が形となったものであるから、普通にマジで尊敬する。けれど、今回私が言いたいのはそこじゃない。



例えば全文にツイッターで・・と言った内容を振り返ってみて、

「小学校の時に教わって畳んだ洗濯物が開口一番汚いって言われて育った私に進んでお手伝いしようなんて気はおこらないし、今でもありがとうすら届かないから頑張って子どもがやった事に対して一番最初の親の言葉って死ぬほど大事だと身にしみてる」

と心行くままに体調不良時の不安と負の感情を幸せの青い鳥さんにダイレクトアタックさせてしまった鬱ぼ氏であるが、


まず、「結果」について自論を言うのであれば、

大人のいう「結果」はある程度場合によっては一定の規定で整えられたものを参考にしている、つまり誰しもが同じ目線で見れる様な環境がある上での結果である事が多いことに比べ、

子どもの「結果」は、同じく勉強に入れば一定のラインがあるにしても、それ以前に親それぞれが作っているラインがあるのではないかと考えている。

(塾でモチベ保つ子ってすごいよな・・ボーダーラインとか優劣がハッキリわかるから勉強嫌いだった自分にはすごく苦手な場所だった。)


つまり、家庭環境によって「出来た」「出来てない」もしくは「これで良い」「ダメ」の線引きが違う。「結果」に対する判定基準が違うのではないか。


勉強で良い点が取れれば・・・何点くらいが?

友達いっぱい・・・何人くらい?


と考えるだけでも多分誤差は多少生まれてくるし、極端な家庭もあるだろう。更に子どもは生まれつき何もかも平等じゃない。環境も、容姿も、スキルも、色々今から学んでいくのだ。

故に、大人が思っている大人基準の「結果」を求めたって、子どもには関係ないし見極めを間違えれば苦しめるのではないかと思う。特に、その基準を大人に合わせるなど・・・・とも思ってしまう。


ーー貴殿は昔から教えられなくともなんでも一人で出来たのか?洗濯をたたみ、文句ひとつ言わず、気づいて大人のしてほしい手伝いをしたのか?ーー


と、突然の毒島・メイソン・理鶯が殺気出して出陣しかけたがそんな子いたら逆に心配する。それだけ大人が放置してて構って欲しくて良い子ちゃんになってるのかなって思うし、機嫌とってんのかなって疑うわ。

ちなみに、「私が子どもの時は」って言われても知らねえ。私は遺伝子こそ受け継いでいるがあなたじゃないし、環境も年代も性格もお母ちゃんも違う。私には父上の血も混じってるんだよ。じっちゃんの血は混じってても少しなんだよごめんな。


少し口は悪くなったが、家族にストレスのある人は経験上の話で申し訳ないけれど、基本家族も他人だと思えば少しは気が楽になると思う・・しんどい人がいたら、なったら良いなと思う。自信はないけど。


さて、つらつら喋ったけれど、私自身がその時どうして欲しかったのかと言うと、「洗濯物をたたんだ頑張りと手伝った事に対する何かが欲しかった」つまり、見返りを図太いながらも求めていただけなのではあるが、子どもと関わっていると、どうも何かをするに子どもはモチベがとてつもなく重要である事が分かる。

素直がゆえに「つまんない」「飽きた」などどこぞのツイステッドな片割れウツボの様に興味をまずはなくしてしまうので、「助かった」「ありがとう」など言ってあげると小さい子は特に

「自分で出来た!」「自分のしたことが役に立った!」と相手のために何かをする喜びが得られるのであり、そこから「今相手にこうしたら助かるかな」とか相手を思いやる優しさが生まれてくるのである。


因みに「助かった」も「ありがとう」も『過程』に対する声掛けであるが、「綺麗に出来たね」「上手に出来たね」はプラス結果がついてきた時の声掛けだと思っている。よいと思う。


子どもに結果を求めるのではなく、結果に導いてあげるのが時に大人の役割だと思うし、結果が出た時に結果をほめれば良いんじゃないかなと思う。

私もあの時、「汚いな」という結果へのドストレート直球言葉でなく、「今度はもう少し丁寧にたたんでみようか」「もう少し綺麗に出来たら嬉しいな」とか、目標を作ったり具体的にどうしたら良いのかという言葉が欲しかったなあ。と、今では思う。あと地味にメンタルは激よわで死んだ。


たたみなおされたのも、ショックではあったし。

我、物事一つするのにも変な緊張で身体が強張って、超絶不器用で臆病な魚ぞ?って感じである。ついでに言うと新郎はこの事を付き合ってる時から深く承知である。いつもごめん新郎。

綺麗好きで、全部抱えて動き回って一人で疲れきって、ちゃきちゃきしている母ツボには到底なれなかった。


「女の子で私の子供なのにどうして出来ないの」って言われたってなれない。なろうとしたけれど、やっと母の思う様に動けた時の自分は、いつも母の行動を見てその順番を把握して、癖を理解して言われた事をひたすらに優先してたし、感情をひたすらに捨て去って動き回るロボットでしかなかたアルね。アイヤー


以来、洗濯物はとりあえずたたんでたんすに入れば良いと思ってるし、ありがとうと言われても素直に取れないから「どうせたたみなおすんだろうな」と思ってたし、一緒にたたむのはずっとストレスだった。




・・いやいいんだよ私の話は。



過程」つまり、「どこを頑張ったか」「どこが良かったか」を見るのは多面的に物事を捕らえる良い勉強になるなあと思う事がある。


例えば、先ほどの洗濯物たたみを考えると、

「洗濯をたたむ」行為の中には細かく分けて

・服の前後を見る

・たたみ方を覚える、やってみる

・布と布の裾と裾を合わせる

・服を折りたたむ

・積み重ねる

があり(他にもあるか?)、その後に「たたんだ服を分ける」という過程もある。


その中でどこか「頑張った所」「できた所」を探すのであれば、(年齢によってどこをほめるのかは異なるが)

・・・う~ん、自分の場合になるけれど、

まずはたたんでくれた事に感謝する。

「一緒にしてくれて(たたんでくれて)ありがとう」


それから、

「角と角を合わせようと頑張ってくれてたね」

「丁寧に折りたたんでくれてたね」

「前後ろしっかり見てたたんでくれたね」

とか、『経過』を見て伝える。その上で出来た事があれば

「綺麗に整ったね」

「たたみ方覚えたんだね」

とか、多分言う。すごいやんとか連呼する。ありがとうとかちょっと大げさに言う。テンション上げる。


その上で、もう少し出来るかな?と思う事があれば

「角と角を合わせると、もっときれいにたためるよ」とか言ってみる。

「丁寧に折りたたんだら、シワが寄らずに綺麗な服が着れるよ」とかやって見せたりして、

言うけど、期待はしない。

やってくれたら恩の字くらい。こうしたら、プラスになるよ、と良い事を伝える。逆に、適当にたたんでて気になるなら

「シワになっちゃうけど良い?」とか聞こうかなと思う。

いいって言ったらそのまま受け取る。後でシワになる事に実際見て気づいて貰う。


まず「過程」としてやった事についてを受容し、やっていた事についてを言う。大人だって、過程を見てくれる人は貴重なハズだ。自分の事を見てくれている、気にかけてくれているうえで、評価してくれるのだから。


これから学んでいく子供なんてもっと貴重だ。結果を出すために何をすれば良いのか、これは良くて、これはこうした方がもっとよくなる。これは危ないとか、前向きな気持ちで知って言える方が入りやすいのではないだろうか。


多分前回にも同じ話をしたかもしれないが、これが出来るのは、「多少余裕のある大人」である様に思う。共働き、ハードワーク、育児疲れに日々奮闘しているお母さん・お父さんにこれをしろ!なんて酷な事は言わないが、

せめて一生懸命に人がやった事に対して、特に初めて頑張った子どもにダメ出しを突き付ける現実はあまりにもかわいそうだなと、体験談からではあるが思った次第である。いや、私がかわいそうとかそういう事を言ってほしいんじゃない。同じ様な経験をして悲しい思いをしている人がいるのは嫌だなと勝手に思っているだけである。


ただ「頑張ったね」だけでも、案外救われる言葉なのかもしれない。


・・・余裕がなくても、言って良い事と悪い事の判別がつけられる、理性的な大人になりたいものである。


別に、父母がそれをしろと言う訳ではない。勿論大人の言葉は子供にはよく響くのでショックなドストレート直球ダイナマイトアタックみたいな言葉が子供を貫かないのであればと願うが、父母に余裕がないのであれば、叔母や叔父、じじばばがそれを充分担えば良い。もし近くにいないなら、頑張った事に対してそんな声をかけてくれるご近所さんや、先生がいる事を願う・・・。




見えづらい所に気づいてあげられる人になりたいし、



忙殺されて、やさしさを失うのは、勿体ないなあと思うこの頃である。




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