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素人が死について考えてみた
病んだらすぐに「死」について考えたり、「タヒにてえ」とか思う事はおありだろうか。
私は決して精神科医ではないので専門知識はないが、社会的な死、精神的な死、肉体的な死・・・色んな種類「死」があるし、色んな度合いの「死」があるだろうが、病むのは「精神」だろうし、「タヒにてえ」は社会的なものが含まれる場合もあるのではないだろうか。
「死」と聞くとあまりイメージの良い言葉には聞こえないだろうし、「死ね」なんていわれようもんなら怒られるご家庭は多いであろう。今のSNSで普通にそれが言える環境がある事が、私にはマイナスが刺激が強くて怖い事だと感じている。
文字だって、人を守る力もあれば傷つける力だってあるし、たった2文字で悪意を充分に感じられるのだ。誰にだって決して容易く使って良い言葉ではないと思う。
自分も反抗期の兄に言われた事があるが、思ったより結構ダメージはデカかった。反抗期は成長の証でもあるだろうが、感受性の有り余る(らしい)私にとって言葉は充分に選んで欲しい瞬間だった。
そういう人に限って、言った事って忘れるじゃん。ふざけんなよってなる。
さて、体験談はさておき、「死」って何なのかを考えた事がある人は多分病んだ事のある人か、どこかしらでお友達になれそうな方々であると私は思っている。
しんどいとき、つらいとき、どうしようもないとき、たえがたいとき。色んな気持ちが溜まって溜まって詰まって、心がパンパンになってあふれ出した後、無気力になった辺りで「ああ」なんて思ってしまった人とは握手したいくらいだ。
私にはリスカまでの経験はないのでそこの部分でのお気持ちは汲み取れなくて申し訳ないが、辛い気持ちをどうにか発散したくて痛みに回避している故の「自傷」だとしたら、それはその人自身が「戦っている」「耐えている」途中なのだと思う。
本当にどうしようもなくなってしまうと、人は「心」を遮断してしまうのだと考えている。鬱や無気力になった人は、戦って戦って頑張ったけど、疲れ切ってしまったから痛みを「感じない」様に身体や脳を緊急事態として適応させたのではないかというのが見解である。
日本は自殺者が多いという情報を見て、考えた事として、この人達は無気力状態になった人々なのではないかなと思う。痛みを「感じない」状態になると、痛みだけでなく、嬉しい、楽しい、悲しい、苦しいなど、沢山の「感情」を遮断する様になる。それは感情の死であり、ふと気が付くと自分はただの身体を持つ人形のような、殻の様な感覚になるのではないか。
例えば、こんな事を考えた事はないだろうか。
自分は何故脳が作動して動いたり、考える事が出来ているのか。一体この脳は生物上の成長過程の上でどうやって作ったのか。なぜ意識があって、感情が生まれるのか。今見えているものは本物なのか。色は、そうなのか。
他人がいるから自分が認知されるのであって、感情は自分の身体が熱くなったり、胸がザワザワしたり、体感で自分の言葉として「怒っている」とか表現できる。感情は相手の認識もあるだろうが自分が決める。
でも、この身体は、本当に自分なんだろうか。
胸がザワザワしたり、楽しく感じなくなったり、ただ動くままに身体を動かせて、笑う時には笑顔を作り出す。でも、そこに「楽しい」というものはなくて、その表情を相手が認識できるように作っている顔のパーツの動きでしかない。まるでロボットみたいだ。
ここで、急に自分が自分から乖離した様な気分になる。
「楽しそうに見せている自分」
「申し訳なさそうに動く自分」
全ての行動に「心」がなくなってしまった時、「そう見せている自分」に「意味」をつけようと躍起になって空回りする。頑張るしかなくなってくる
心と身体がバラバラになっていくと、そこまでして頑張らなければいけないのかという事に疑問を持ち、生きる意味を探す。
生きている実感が持てなくなってくる。
これが「殻の様な感覚」だと思っている。
そうなると、どうか。どうでもよくなる。
生きている事で頑張って自分を偽って笑ったり、楽しそうにしたりして偽り続けること(それだけではないのだろうけど)で生きているのなら、これほどしんどい事はないのだと思う。
そんな時、誰もが持っている唯一の自分だけの絶対的な自由がある。
生きているのをやめる事である。
私にとって「死」のイメージは「解放」である。
自分がこの解答に辿りついた時はまさに無気力状態だったが、この時は「いつ死ぬのか自分で決められるならせめてこれやってからにしよう」なんてハイにガラっと陥ったので、ものも考えようだとは思っている。
さてしかし、もし自分が死んだとして、自分は解放されたとしてもその後を考えてみて欲しい。
家族がいる人は、まず家族が葬儀をしなければいけない。
独り身の人は、自分の身体を誰が処理するのか分からないし、それを他の人が見てトラウマになるかもしれない。
死亡届も出さなければいけないし、受理されれば口座が使えなくなる。
手紙を書いたにしても、遺産分配などで仲良く分けられる家族かも違ってくる。
葬儀には、小さなお葬式があるにしても費用がかかる。加えて遠方の親戚がいるなら交通費も出さなければいけないし、言い方は悪いがしっかりしたお葬式をされるなら、単価が結婚式と同じ様な感覚になるかもしれないものもある。
続いて、お葬式をするのに準備がかかる。まず式場に電話して予約をとり、お花をどうするか、参列者に連絡、手紙などだし、お食事など必要な場合もある。とにかくドタバタするし、忌引きの手続きは各職場で必要だろう。ご近所から人が来るとなればお仏壇か、ご挨拶か来るのに時間を割いて、お茶屋お菓子を出したりする時間もあるかもしれない。各人仕事が忙しい人に予定を空けてもらわなければなるまい。もしかしたらマスコミは家の前にたむろしてしばらくは家から出られないのかもしれない。
実は亡くなった後の方が超絶忙しかったりする。でも、それをするのは、
けっして自分ではない。
自分だけ解放されて、結果周りを忙しくさせたり、悲しませたりすることになるのだ。周りの人の予定を狂わせる事になる。
だから、自分の意思で生きるのをやめる事は、「究極のワガママ」だと思っている。
自分だけが解放されて、他には迷惑をかけて終わるなんて自分には出来ない。周りだって程度は違ってもしんどいし、辛いし、頑張っている。でも、だからと言って全てを放棄して良い分けではない。全てを放棄して良いのは、自分の身体が尽きるまでだと思っている。
しかし、疲れて限界の人に頑張れなんて言わない。いやだって頑張ったから疲れたんだろう。休む事も仕事だと教わった。
人のペースも器量も色々である。疲れた時は休めば良いと、私もだんだん思ってきた。大丈夫。自分が長期休んだって仕事は回るし、世界が終わる事もないし、誰も変わらない。どっかり休んで、動こうかなと思ったら動いてみたら良いと思う。そうしたら、それが人の役に立つ事だってある。
疲れたら、休んでも大丈夫だって環境と
疲れたね、お疲れ様って言ってくれる人と
ゆっくり休める気持ちが欲しいよね
だいじょうぶ。できるときにしたらいい
まいにち、おつかれさまです