変化と恋ネタ

気になっていた男の子には、祖母が倒れた時も母が倒れた話もしていた。そうなんか、と聞いてくれるだけでもありがたかった。そんな人が欲しかったのかもしれない。

それが恋心なのか、ただの安らぎを求めた結果なのか、卒業式の後、母が一旦帰宅して待ってくれているにも関わらず、時間はかかったが告白した。


いや、告白というよりは、今まで我慢していた我慢や感情が爆発した。男の子は控えめに俺もです、と言ってくれると、嬉しさなのか、何なのか、わけの分からないまま声を上げて泣いた。男の子は何も言わずにただふっくらした温かい手で頭を撫でてくれた。もっと泣いた。


私は何も出来ない。これから大丈夫かな、家で家事をしても上手くいかない。ご飯を食べてくれない時もあれば、勝手に総菜を買われた事もあった。ちゃんとしろと言われる。もう無理だ。しんどい、と自分勝手に男の子の胸で泣く。頭をポンと触って、頑張ってるよ、と言ってくれる。

大きい負担をかけたかもしれない。これからよろしくね、と離れる大学生活を何にも思わず、最後には笑って帰る事が出来たのを何となく覚えている。


ほどなくして、不安を胸に母は退院した。家は住みやすい様にやや手すりをつけて、私や兄・父が急遽選びに行ったベッドもそのまま使用する事になった。

母は真面目にリハビリを始めた。公園を歩く旅に見知らぬおばあちゃんやおじちゃんに応援されてはやれこうしたらだの、リウマチだのいわれていた様で、悪気はないと分かっていてもあまり楽しそうではなかった。それに、彼女は元々よく動く人だ。以前との活動範囲の違いにイライラしたり落ち込む姿がよく見られた。


退院してから長く、私が見る限り情緒不安定だった。


彼女は徐々にご飯を作ったり、出来る事をひたむきにやりながら過ごしていた。横にいると、彼女がどうすれば動きやすいかを考える様になった。思考が彼女視点に少しずつなっていったのだ。

多分、入院時期に母と一番一緒にいたのは私だ。何を持ってきて、何をしといて、とか、全部ではないけれど、知識をつける前に本人やリハビリの先生に教えて貰って介助した気がする。出来ていたかは分からないけど。

この頃からすでに兄が言った「母は私に任せられない」という言葉に妙な感情を持っていた。


母はどこでも友人を作った。話しかけ、同じ様な身体の方と話す事が、分かってくれる面が多くあって安心していた様だった。この頃は、自分の身体の状況を説明する母は必ず涙ぐんでいたし、一言で良い所を必ずと言っていいほど綿密に伝えていた。まだ、彼女は心の中で自分の身体が不自由になった事を受け入れていない様に見えた。


ある日、「~したろか」と口癖の様に言った父に母は泣きながらキれた。私自身も、別に悪気があった訳じゃない。最も父はブレずに自分の気分じゃないと手伝いをしない人なので、しゃあないな、という雰囲気を出したのか、どうだったのかは分からない。

よく考えてみれば、その「してあげる」は、他者のために自分が動く事を強調してないだろうか?自分がやってあげてる、と聞けば、何となく私は想像がつく。

ただでさえ不自由になったからだで人に物事を頼むのは、ナースコールを鳴らす時から気を遣っていた母だった。身内だからこそ嫌だったのだろう。「私にもできてたけど、今出来ない状態になったから頼んでるのに」と言っていた。

その日から、母がしたい事を事前に出来る様に考えて動く癖をつけた。負担にならないように。でも、自分で出来る事はして貰う動きがしやすい様に、自分なりに考えていた。

そして、「してあげる」の変わりに「これ~したらいい?」「これどうしたら良い?」「これ~しといていい?」と言い換える様になった。彼女のしたい事を、本人から聞いてすぐに動く。基本待てない人は、今この時点で動かなければならないから、最優先事項として考えた。


おかげで、私が同じ過ちを踏む事はなく、台所事情も教えてもらいながら彼女の荒れやすい手を傷つけない様に洗い物を率先してまずはやったりした。

久しぶりに食べた母のご飯は、まぎれもなく母の味で、美味しかった。


それからしばらく年月が経って彼女は車の免許を取り終え、障がい者学校に行くと行った時は、とても良いと思った。何よりサポートがちゃんとしており、何かあっても大丈夫だと思ったからだ。知識的な理解者がいるだけでも十分だ。


学校に行ってからの母はとても楽しそうだった。様々な年代のハンディを持っていた人達が集まっていたが、パソコン初心者の母にとって初めての知識を入れる事と、自分より若い年代の子と話す機会があったのは本当に良かったと思う。楽しそうに学校の話を聞かせてくれたし、その経験が今に活きているのだと思うと、その活力は私よりもはるかに素晴らしいものだと思う。

一方で少し時間は戻るが私は大学生になり、毎日ピアノ漬けだった。レッスンや本番やけちょんけちょんの日々だったが、私が部屋の隅っこで泣いたり死にたいと思って始めた作詞作曲を止めたのは、大学生活が充実したからかもしれない。

まず何がありがたかったというと、音楽の話をするのが当たり前で、弾けたからと言って過剰に褒められない環境だという事。友達とベッタリずっと一緒じゃないといけない空間がない事。グループが自然に出来たけど、みんな自分のやりたい事を優先するから、いうなれば空き家があるからグループで自由に時間がある人だけ集まってご飯たべたり遊んでた、程よい距離感だった。

そして何より、同じ門下の2人が耳コピできる事。これはデカかった。それだけじゃない。違う楽器でも、グループにいる子たちとピアノを遊んで急にでも弾けた事がデカかった。これは高校生までまず縁のない話だった。家では遊ぶと怒られるし、絶対音感が過剰に褒められる空間は疲れていたからだ。そして、好きな伴奏が出来た。好きなソルフェージュがあった事だろうか。

大学は試験やレッスンを覗けば楽園だった。もっとも私が入学前、裏では父が失職し、叔父が私の入学を諦める様に勧めたが母があきらめず、祖父が学費を出してくれた話は、後から聞いた。知らない所で、支えられていた。

家に帰ると、必ず母の手と足のマッサージを兄がした。固まってしまうから、と言っていた。

それから、生活は変わり、父の仕事も決まりまた落ち着いてきたのだった。



彼氏とはメールで関係が続いていた。変な夜にさいなまれた自分の中では、キスは重大な事とは思えなかった。

ただ、メールの来ない時間が不安でたまらない。大学生になってからは、こちらから送らなければ2,3か月。黙って待っていたが、半年も連絡を取らない日が続いたので、ついにデートの約束をして地元の駅で落ち合う事になった。

久しぶりに会うからと自分が持ってる中でも良い服を着てデートに向かうと、そこには彼の姿はなく、待つ事にしたのだ。


すると、そこにはBad Boysさながら中学生の時に誰もが竜のついた剣に憧れてつい着てしまった炎のついたダボッと着るジャージの様なズボンをはい・・・・・チェーーーーーン!!!!チェーーーンついとるよオカンお母さーーーーーーん!!!!!!!!!!!!!!!!!


いやいや年齢考えてしかも私の中で一番アウトな服装「チェーン」「竜」「剣」のトリプルコンボかましてきたこの人マジで!!!!???マジかーーーー!!ま、マジかーーー!!!!!!!!


いや、否定は良くないかも。


「あっ・・と・・、私服初めて見た!どうしたんその服?」


いいぞこれはいい質問です相手の購入先を聞いているんだ私はけしてディスる訳ではないし、もしかしたら一張羅かも!それはそれで大☆問☆題だけど!!


「ああ、兄貴に麻雀で勝った」


まーーーーーーーーーーーーーーーーーーじゃん!!!!!!こちとら!!!!Any sis!!!!!!!!!!!Every bady say!!!!ANI SIS!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


「そっか・・!じゃ、行こうか」


といった先でひたすら後ろに付いてこられるこの謎の緊張感。どこか自由に回っていいよと言っても「いや特に」と言われるがいやいやドラクエかこれ。でも今の主人もその傾向なんだよな。それはさておき。

そして限界が来たのは、彼がベースをしているので楽器店へ行った時。わんわん鳴る長いチューニングは絶対音感の私には耐えがたいものだった。

それでもものともせず雑誌を読む彼に「私違うフロアを見るね」と言うと、ついてくる。見ててもいいよと言うと、別にみるものないし、って今見てたやろがい!!こっちは我慢して待ってたの!!!!

もう一人で帰りたい、というのも心にしまうと疲れてきてしまって時計を見ると13時。流石にお腹が減って、ご飯にしようというと、特に希望はないむしろお腹が減ってないと言われ、16時までもつとか言われる。ふざけんな殺す気か。

こちとら成長期待っただなかの健康志向なんですうううう!!!!!!とか腹では言いながら、お願い食べさせて、何なら入る?と言っているとサイゼを見つけ、初めてだったのでテンションだだ上がりで入る事に。

頼んだオムドリアをあつあつ言いながら頬張ると、それを見てほほ笑むあなたはちいちゃいティラミス。これ男女逆転か?いやいいけど。


お約束でオムドリア熱すぎて普通にティラミス先に食べ終わられて待たせる事になる。泣きたい。ごめんと言いながら食べる。ちなみにティラミスが超粉っぽくて泣いた。せめて一緒位に食べ終われる熱くないものを選べば良かった。

ご飯を食べて時計を見ると、そろそろ晩御飯を作らなきゃいけないからと帰る事にする。ありがとう、楽しかった!と言えた私をえらいと言って欲しい。後、隣でチャラチャラチェーン鳴ってたのをずっと我慢してた事を褒めて欲しい。


っていう話(実話)をすると対外みんなが爆笑するので、もうネタにする事にした。その後も彼と同じ名字の人とよく会う。呪いかな?

あと思い出した。これは大学入学前の春休みの話でした。



彼とはあまりにも連絡が取れなくて、ずぶずぶ続けるのが嫌で電話で別れを告げた。彼は自分の意見を言わずに同調だけをする人だったから、全部自分で決めたり動く事に疲れてしまった。電話口には陽気に騒ぐヲタ友の声も聞こえていた。本人もあまりの急な電話に、言葉を失った様だった。

今となっては、一番つらい時に支えてくれた人だと感謝している。成人式の時に再開した時は申し訳なさすぎて目も合わせられなかったけど。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?