著書と自分の比較をして振り返ってみた

先日、発達障害のピアニストの方とそのご家族様が著書の本を見つけて買ってみた。



買った理由は2つあった。


ひとつは、今やってる、自分の仕事に役立つから。

もうひとつは、自分と何が違うのか、一緒なのか知りたかったから。



うつぼの生涯で前回振り返ったが、「何か(頭に)あるんじゃない?」と恩師に言われたこと、母に大人になってから「そうかなと思ってこともあったけど」という言葉が、ずっと引っかかっていた。


最近になって大人の発達障害やADHDをよく聞く様になった気がするが、知識が少ない自分でも介護の法律や障害に対して国の対応が変わったことが最近だと年表を見て驚いた。

「自分はそうかも?」と思う大人が増えているらしいが、自分にはそう思いたい安心感が自分を怠惰にさせないかという不安と、本当に障害で苦しんでおられる方に失礼になるのではないかと考えているので、「自分はどうだ?」と思ってはみたものの、昔からずっとあった違和感を「自分が出来ないからだ」で理由付けしている。


検査も受けていないのだから、今は自分でそう思うしかないし、自分で出来る事はあるはずだし、一応生きて生活出来ているからよしとしよう。


はっきり今の時点で言えることは、私は発達障害ではないが、何となく、なにかはあるのではないかと思うという事だった。

とっても申し訳ないかもしれないが、そう思えるまでこれだけ時間がかかってしまったので、こう言ったことを許してほしい。




本の中には、そのピアニストと、両親、先生の文章があって、それぞれの気持ちが記されていた。


そこには、両親から見た娘の状態と、自分達の事。先生からの気持ちがこもった手紙と、ピアニストである彼女が本心を綴った手紙があって、何となく、先に彼女の書いた手紙から読む事にしたのだった。


幼い時から彼女が思っていたこと、考えていた事、感じたことの中で共感した事がある。


いろいろな音を音楽にして流すこと。

聞こえる音を「ドレミ」で表していたこと。

電池が切れかかるものの音が低くなっていって、それを伝えていたこと。

自分の気持ちをその時のピアノが表していること



これに当てはまるから、とかいう話ではなく、「絶対音感」ならあり得る話でもあるので、これだけみて判断するのはまずやめた方が良いが、この人は趣味と言ったが「いろいろな音を音楽にして流す癖」と、気づいていなかったと書いてあったが「自分の気持ちをピアノで弾いていた」事には深く共感した。


自分がみんなから否定されても、ピアノは否定しない。ピアノなら聞いてくれる。と、手紙には書いてあった。


、とてもよく分かる気がした。と同時に頭にはやっぱり碇ゲンドウが垣間見えた。


そして、この人は幼少期、泣きながらピアノをしていたらしい。この人にとって「ピアノは好きだけど、やらないといけないもの」「怒られるからやるしかない」だったのではないかと父親が考えているそうだ。


幼少期から言われ続けて大学生まで「音楽大学に私は行くんだ」と何一つ疑わずに来た自分にとっては、この「やらないといけないもの」の感覚は強かった。ピアノも音楽も好きだ。でも、恩師の言った「誰のために弾いてるの?」はここで壁に気づく質問となった。


決定的に、自分は恥ずかしながらも母の影響を強く浴びて、自分の意思とは関係なくすくすくと育ってしまったのだと考えている。

いや、勿論それに気づかずに生きてきた訳ではない。人々の賞賛を受けて喜ぶ母の顔と、凄い凄いという周りと、変な負けん気と「自分にはこれしかないんだ」という不安と、見捨てられたくない焦燥感がいつしか戻れなくなったなれの果てであると考えた時期もある。



責任転換だろうか。別にそう思ってくれても構わない。ただ、あの時自分は自分の意思でピアノをしてこなかった時期で、自分の意思というよりはそう言う他道はなくて、文句を言わない約束を固く誓って続けることを選んだのであった。


でも、本の著者の様に私は真面目でも必死で出来る訳でもなかった。

小4で金賞をとった時、先生が「そのまま弾いてればもっとうまくなってたのに」と言っていたそうだ。それから私は燃え尽きた様に練習すえう気力もなく天井や壁を見つめたり、創作に没頭していた。自分の世界に逃げ込んだのだった。そして、夜は眠れなかった。


自分はただ、母が泣いて喜んだのが嬉しかった。



自分語りに逸れたが、話がよく飛んでしまうのもある種の特質とは似ていると思う。こじつけかもしれない。



小学生。コンクールで一番厳しかった時は、一番変な事をやらかしまくった。小4は学校の先生が規制の厳しい先生で、間違ったり忘れ物をしたらみんなが座っている中一人立ってやらかした事を言う公開処刑があったのが、一番嫌だったし、しんどかった。


その時にはレッスンでも学校でも先生の言った事を素直に受け取れなくなっており、これは実例だが、一番きつかったのが、テストで名前で回答を書けを言われているのに、本当にそうだったのか、先生がさっき「そう書いてるけど記号で書いて」と言った気がして、不安で分からなくなって何も信じられなくなって、訳わからん思いつきの記号で全部回答して0点だったとか(回答自体は全部合っていた)、それをみんなの前で怒られて間違えたって言わされたことだった。

その時期は、みんなの前で出来なかった事を言う度に頭が真っ白になった。レッスンでも出来ない事について聞かれると「早く答えないと」「何でしなかったんだろう」とぐるぐる考えて頭が真っ白になって、時間だけが過ぎて怒られることしかされなかった。



・・・?今打ってて思ったけど、特質とかじゃないな、原因この時期か?




それはさておき、著者の一人である彼女が「比べられるのがしんどかった」とあるが、それを見て思い出したのが、自分が失敗や押し問答をした時に、他の子と比べられたり、その子に「どう思う?」と聞かれた事だった。そんなの返答は決まってる。「先生の言う通り」だ。

人それぞれペースや得手不得手があるだろうが、「なんでこれが出来ないの?」は、先生が少しでも私に指導してくれようとする愛情と感じる裏で、出来ない自分が嫌いになっていくだけだった。


著者のお母さまの文章で、娘が自傷を始めたのは環境の変化とある。環境の変化は不安を生む。何でかって、そこに何があるのか分からなくて、何が今から起こるのか全く予測が出来ないからだ。いわゆる「見通し」がないと、不安になるのだと思う。

場合にはよるが、全体は変わっても一緒にいる人が同じならそれは軽減される時もある。それか、音や景色に興味がいけば関係がなくなるが、これは自分とは異なるようだ。私は新しい場所が好きだが、時間があって、静かな所でぼっつら一人散歩したい。香り、景色、人、物、花、虫。、お店の看板、老舗。色んなものに目を惹かれて散歩するのは、楽しい。

それが、何か目的があって、何時に待ち合わせして、道順があまり分かってない状態なら、ごみごみしている状況も加えて不安で仕方なくなる。ましては移動速度の速い車なんかは、不安でしかない。


あと、「安心サイクル」。


ここら辺になると、「こだわり」になるんだろうか。ルーティンは身体によいと聞いた事があるが、自分の場合は物事の順序が崩れると「自分の中での動作の最適化」が崩れて、嫌な、もやもやした気分になるか、急いでいる時だとプチパニックで逆に数秒身体が止まってしまう。

物事をぷよぷよの連鎖みたいに順序を組んでいるので、お邪魔ぷよを置かれるとまた連鎖を考え直すのに時間が必要なのだ。


そして、小さくても「出来た」がないと、達成感がなくストレスがたまったり、不安になってしまう。こういうのは疲労がたまってくると逆に安心するためにこういう「サイクル」を使う事があるので、自分を落ち着かせるツールとして無意識にしている防御反応かもしれない。と思えば、割と当てはまる人はいるのではないだろうか。


自傷についての表記は、当事者にしかわからないストレスや、無意識にしているものもあると聞いたのでなんとも言い難い。

敢えて言うなら、自分は自分にストレスを与えて鼓舞させることで練習していた時期があった。そんな時は大体急に決まった本番や、受かるはずもないと思っていたオーディションに受かって本番が重なった時で、「やるしかない状況」は積み重なっていた時だったと思う。

今思えばあの時の自分は限界で、ストレスを胡麻化したりそれ以上の痛みを受けることで安心する為にしたんだな、と思う。今はイライラすると爪を立てて毛穴のごみを出したり、頭をガシガシかいたり髪の毛に手がいってしまったり唇の裏の皮を破いてたりするので、まだ程度が分かるだけマシになったとは思っている。


「脳疲労」という言葉を耳にしたが、頭が疲れると、だんだん熱が出てきたり熱くなったり、ぼーっとする事が増えた。著者でもそうであったが、私は同時にいくつものことをするのが苦手である。え?と思われるが音に対しては別で人に聞かせるピアノ演奏となると、左右の微調整がめっちゃヘタクソである。そう思ったら自分は楽しんでピアノを弾く位が丁度良いのかもしれないと逃げたくなる時がある。(練習不足もあるし、状況によって不安がそうさせる時もある)


頭が本当に疲れた時は、脳内で色んな声や音がごっちゃになって収集がつかなくなる。何かの本で読んだが、発達障害の方は情報を仕分けするのが不器用なので全てを取り込んでしまうらしい。

そういえば働いて1か月たった時、周りで別の話をする職員と目の前で話をする職員の会話、チャイムの音、物音が全部混じって何も頭に入ってこなくなった事がある。自分は疲労がたまるとそんな状態になるらしい。

そうなるとどうなるか。脳内がパニックで真っ白である。真面目な話、言葉も出てこない。自分の場合、真っ白になって言葉が出てこないと昔がフラッシュバックして苦しくなる時がある。おまけに「何か言わなきゃ」と責め立てられるので、酷い時は「大丈夫」と脳内に文字が出てきて埋め尽くされてしまえば過呼吸になる様に前の職場で出来上がってしまった。まことにややこしい人種である。

著者は人間関係でストレスを感じ、過呼吸を起こしておられたそうだ。


もう一つ著者にめちゃくちゃ共感したのが、「伴奏」依頼についてである。著者は断る勇気があったそうだが、その後断った罪悪感でストレスを貯めていたそうだ。断れるだけマジで凄いと思う。私は断れなくて色々な人から怒られた。


何曲もとうがそれが出来るのは当たり前だと思っていたし、そうでなければならないと思っていた。から、先生に怒られて反省したけれど、自分の実力不足だと思いながら限界を知ってしまった気がして情けなくなった。


このストレスで乖離性障害まで続くと本当にしんどい思いをされたのではないかと、文面で書く事は出来るが本当に、実際著者は大変だったと思う。

何かと比較を自分もしていて申し訳ないが、乖離までいかずとも、傷ついた自己保身で「別の自分を作る」ことはしていた私にとって、しんどい時はそいつが日記を書いたりしていた。記憶もあるし、ハタから見ると演技をしている程度なので気持ち悪さで済むと思う。多分。そうあって欲しい。

そいつはいつも悠々と自分の気持ちを代弁して、まるで物語の様につらつら語っていく。そして、自分に「こうだろう?」とか問いかけてはなだめていく。今ではもう見かけないし、結婚を境に日記もおしまいにした。


この本を読んでいて共感も沢山あったが、読み終わってから一番心に響いたことがある。

たびたび「先生の言葉」と記事や動画を見たが、このピアニストである彼女が出会った先生である。

「その時思っている感情で弾く」

「あなたはあなたのままでいい」

否定されなかったから、と彼女が言っていたこの先生の、「あなたはあなたのままでいい」が、自分の目に入った瞬間、このもろい涙腺からは水分が湧き出ていた。


ただぽつりと「いいなあ」と言っている自分がいた。



別に、先生にそれを言って貰いたかった訳じゃないけど、ある意味言って貰いたかったのかもしれないし、自分は、自分に一番近かった母に、それを言って欲しかっただけなのかもしれない。


自分の気持ちを音楽にしている事を、誰かに知って貰いたかったけど、その時の自分は暗い音楽と詩ばかりで、それが母の好きなものではなくて、聞ける環境ではなかっただけだったにすぎない。

言葉では言い難いけど、音楽なら気持ちに出来る。それは著者と似ている所がある。


この人は、それを先生が分かってくれて、母親に後から伝えることが出来たのだ。それが、素直にいいなあと思って、苦しかった。


結局、言えなかった言葉を聞いて、知って欲しかっただけなんだと思う。



私の場合は、ずっと話を聴いてくれて自分が嫌なことは嫌なんだと教えてくれた友達には当たり前のことなのに目から鱗だったし、それをしんどくても新郎から言語化する様に、待って貰いながら心を刺される様な痛みで少しずつ出す練習をさせて貰えて今がある。

気持ちを伝える音楽は、昔はブログで、今は友達が勧めてくれた動画投稿で配信する形で、誰にでもないけれど昇華することが出来ているし、随分とその子にも助けられている。動画はこの間コメントを頂いた。めっちゃ嬉しかった。


自分が好きなピアノの弾き方で、今は本当に自分が好きで弾いている。幸せである。が、これを上手く弾きたい、という時にやり方をきっちり教え込んで頂いているので、先生方には本当に感謝しかないし、気持ちを表現できる様になったきっかけとしてピアノを始めさせてくれた母には感謝したい。


後から思ったが、自分は自然や水、不思議なガラスを連想した音楽を求めている気がする。自分の持つ世界は、とてつもなく澄んだ、濁りのないものであってほしいのは、過去に信じられなくなったものを見たくないからだと少し思ってしまう。だからこそ、ラヴェルが好きなんだと思う。


時々、ピアノを弾けていない時間が続くと、落ち着かなくなってしまって、昇華する様に即興をする事がある。そういう時は静かで、深い森や水にいる様な音楽を作っている。指がそうしている。

そうすると、あふれでた気持ちが涙になって昇華される。そうすると、深く息を吐ける。


時々頭が真っ白になってごちゃごちゃになってしまったら、クラシックを聴く。

単旋律がゆったり響くものか、整ったテンポの曲。あまりゆれないやつ。和音がぴったり鳴る、綺麗に調律された音。

いつもはラヴェルを聴くが、この間はショスタコーヴィチがあまりにも整って素晴らしすぎて、自分の中でカチッと何かがはまったので通して聴いてしまった。逆にテンションあがって元気になった。革命起きた。





ここまで本と自分の対比みたいなことを書いていたが、ここからは色々ありながらも友達と今の新郎のおかげで何となく思考が変われた自分が、次回はもう一つ大きな変化が持てたきっかけを語ることにする。




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