受容とコミュニケーション
「受容の部分がめっちゃ短いですね」
人に対してコメントを返すにも、お客様に文書を返すにも、「そうなんですね」なんて1行で完結させてしまう我がの習性に気づいて、自然と自分から出た言葉に引っかかった。
人と関わる仕事をしていると、いかに自分が他者との関係性を壊さない為に当たり障りなく生きているのかが分かってくる。
特に気心知れる友達でなければ深入りしない。今までの女性特有のドロドロした心理戦にうっすら巻き込まれてきた経験が面倒を避けているのかもしれないし、仕事する上で深入りする必要もないと思っている所もあれば、人は平気で裏切ったり嘘をつく生き物だと思っているので確実にその人の行動や言動を見て自分で大丈夫と判断するまではあまり信用もしていない面もある。
ここまで言って察しが良い人はおそらく答えが出ているかもしれないが、ひとまず書いていく事にする。
受容が短いったって自分で言っちゃう言葉じゃなかったなとか思いながらその日は仕事から帰宅したが、何故返す言葉がもっと出てこないものかと考えると、理由は明確すぎた。
「変に気を遣いすぎて言葉が出てこんのやろ」
と言った新郎はどんぴしゃそれな、と言わんばかりの解答をゆるりと椅子に座りながら言う。今まで自分にとって自身の意見が素直に受容された経験が少ないが故の末路である。
過去に自身の考えを言うまでに「これは他人にとって合っている解答なのか」を探しすぎたせいで、癖がついてしまって言う前にストップがかかってしまっているのだ。つまり、脳内では沢山思っている事があるのに、どう言おうか、どう言えば良いのか、合っているのか悩みすぎて最終的に自信がなくて「そうですね」しか言えない。一番それが無難な答えだと知っているからである。
それをする事によって会話は終結し、続く事はないが安全に終わる。楽しさには欠けるかもしれないが。
なんて見解を言うも「いや自分が怖いからやろ」と切り込んでくるあたり流石数年通してこの頑固者から本心を引き出した強者である。いや私はあなたのそこん所も怖いよ。
もうそれは染みついたものだからと言われはするが、そういうのであれば、おそらく「受容」は出来ている事になる。言葉を聞いてはいるし、受けてはいる。キャッチボールするんじゃなくて、投球を永遠に受けている状態かもしれないんじゃないか?そりゃ相手がいつか疲れてしまうわな・・申し訳ない。
となると分かってはいたがこみゅにけーしょんのうりょくとやらが自分の課題になってくる。返すことばの問題である。
面白い事に今そこん所を指導したり勉強する立場にあるが、今の仕事と重ねるとすると、圧倒的に返事のタイミングが違う事に気が付いた。
話しかけられて、話を返す時間が、考え来む時間を有するととてもテンポ感の悪いものになってしまう。
幸い今の周りは待ってくれたり聞いてくれるありがたい環境であるので助かってはいるが、多分自分のテンポと相手のテンポが違うから被ってしまう時が多い。相手が次に話す時は対外自分の中では空いてしまった時間を埋める為の焦燥した話しかけか別の視点からの話か、別の話題である。
多分と言わず、話が弾むというのはお互いが同じテンポ感で、良いテンポを保ちながら内容を共有し、それについていろんな角度やつながった内容で広がる事だと思う。
前職では高齢者のテンポが比較的ゆっくりの為、考えをまとめながら話しかける事が多かった。現在は歳が若い方が多い為、自分からすると頑張ってもまだまだ遅いのである。
それどころか、同期と話していても自分から喋る速度をゆっくりしている事に気づいた。悪いとは思わないが、今の仕事の事を思うとここは大半が生活に繋がる課題なのかもしれない。
しかし、
「思った事をぱっと言う練習したら?」
と言われた時には、本能的に首を振って「一番したくない」と言ってしまった。
自分が、それを母にされてきて嫌だったから。自分がそれをしたくなかった。
だったら、とにかく「そうだね」ともう一言いう練習からする方が良いのかもしれない。今は「そうやな・・」とは言っているが、仕事ではそうはいかないから、やってみる価値はあるのかもしれない。今日からやろう。
自分の頭を早く確実に使う方法を、考えてみよう。とはいうものの、いつになったら出来るのかは分からないが努力はしようと思う。多分ミスるとも思うし落ち込むと思うけど。
でもそうなっても「とりあえず無事に帰ってきたら良い」と言ってズッシリ家で構えてくれる人がいるのは、結構ありがたい事である。
「多分パッと言ったとしても人を傷つける様な事は言わんと思うけど」
とは言われるも、失礼はあるかもしれない。
あと、よくある事だが、自分の中では話が派生して繋がっていても勿論相手には伝わらないので話が飛んでいる様に聞こえてしまう。人は誰しも濃くはなくても色んな発達においての特質があると言われているので、私の場合は割と注意散漫だったりこだわったり、昔はしんどくて自分の作った空想にふける事があったり、聴覚を取捨選択できなかったり予想外の事で思考停止してプチパニックになったり、感情発散が苦手で遠回しに軽く自分を傷つけたりと、何となく親から引き継いだものもあわせてそうだよなって思う所があったりする。が、あったとしても上手く付き合っていくより他ない。
何がともあれ無事に生きてこれたので良しとするが、そういえば最近珍しい事があった。
あまり詳しくは言えないが、どうやら母の知人で今まで真面目に頑張ってきた人たちがもろもろにメンタルにきてしまった様で、話を聞きながら色々考えたそうだった。
私の見解としては、言い方が難しいが、生活の中に絶対的な存在が強すぎると抑制的な中で過ごす事になり、ストレスがたまる。
小さい頃は頼れて良いかもしれないが、自立する様になってからは対立もするだろう。それならまだ良いのかもしれない。
どうやら、最初は結構感情的に、激しく知人に伝える事が多かったようだが、その人も長期間遠方に行く事になり、そこからほころびが出だした様に思える。
つまり、言い方が悪ければ知人は感情のはけ口であり、よくすれば本音を言える安寧の、リセット出来る場所だったのだ。知人のアガペーは人間を救っていたのかもしれない。
しかしその長期間の間、各自で頑張り続けても知人に変わった浄化方法を上手く見つけ出せず、苦しんでいるのではないかと母に伝えてみた。
「あんたらはさ、結構悩んだりとか何かあってもあんまり言わんやん、それって私がそうさせてきたからなんかなあ、言うのを諦めさせてたんかなあ」
うんそうだよ、とは流石に言えなかったが、それよりも
「いやあなたもやろ」と言ってしまった自分がいたのは予想外だった。
顔にこそ出るかもしれんがお互い様だろ。父もため込むタイプではあるし、私もそうだけど自分はどうだったの?と聞いてみれば「自分も結構ためるタイプだった」だって。親子だからな!!!血筋かな!!
うちはそういうのヘタクソだからな。内で考えて考えるからな・・・・あれ、冒頭の受容とかコミュもももしや血筋????????
母はそれを爆発させることが出来るし、父はそれを出来ないだけである。
兄はそれを爆発させることが出来たし、私は出来なかったのである。
が、頑固や心配症が募って絶対的な立場が彼女にあったのも確かではあるし、父が頼りなかったから出来た人格っていうのも否定は出来ない。
私達が諦めてたのも本当だし、変わらないと感じているのも本音である。
でも、私は絶対に母や兄みたいに衝動的に人を攻撃したくない。
父もそんなことはしない。
その分、溜めているものが増えるのだと思う。
とりあえず、今はそれを向き合いあがら色々と模索して生きていこうと思う。
今日は出勤じゃ!!!!!!!行ってきます!!!!!!!