後悔していること
※身内が亡くなった話があるので、苦手ならbackしてください。
「じゃあまた明日な」
それが、ばあちゃんからハッキリ聞いた、私しか知らない最後の言葉だった。
倒れる直前、帰るばあちゃんを最後に見送ったのは、私だった。
小学校の時から、毎日うちに帰るといつも大きい眼鏡をかけて、新聞を読むか服を縫っているばあちゃんがいた。
家に帰れば人がいるありがたさを知ったのは、おそらく帰ってしんとしている真っ暗な玄関を見た時だっただろう。
「おかえり」と言って貰えるありがたさは、分かる人にはわかってくれるのだろうと思う。そんな事もあって、私は必ず家の者に「行ってらっしゃい」「おかえり」を言う様にしている。
「行ってらっしゃい」には必ず「気を付けてね」という。
何も起こりませんように。と無意識のうちに刷り込んでいっているのだろう。
行った先で、何があるのか、玄関にただいまと言って入るまで何があるのか分からないからだ。
そして、ばあちゃんが倒れる前の元気な最後も、母に起こった元気の最後も、声も、自分だけが知っていて、それが最近まで離れなかったからだ。
ばあちゃんがうちから帰ってからすぐに電話がきて、「倒れた」と聞いた。パニックのまま電話を回し、それからまともにばあちゃんの声は聴けなくなった。
かと言って自分の行動が大きく変わる訳もなく、悲しみながらもがむしゃらに動く母を見ても、何も気づけなかった。
時々お見舞いに顔を見に行くと、独特の体臭と、心電図の音と、うっすら目を開けて分かってるのかわかってないんだかよくわからない表情で手を動かしている彼女がいる。頭を吹いて、手を握って、身体をふいて、母は声を何度も震わせながら、じいちゃんはずっと手足を揉んでいた。
しだいに手足も動かなくなって、気管切開する。もう、声は出ない。だんだんやつれていく姿に、変わり果てていく様子に、冷たくなっていく骨ばんだ皮が母には耐えられなかったと今なら思う。
それでも兄の誕生日と聞かされ、祖父をバシバシ叩いて財布からお金を出させた祖母は、すごいと思った。わかっているのだ。
母は必死だった。仕事から帰ってご飯を作り見舞いに行き、祖父の事もした。実質1年だっただろうか。彼女の疲労はここから大きく積もったのだと思う。
とは言いながら、私の家では土曜にじいちゃんの家にお好み焼きをする事になった。新たな習慣だったがこの日は私とじいちゃんが主導に動く日となって、なるべく母を動かせない様にした。
ばあちゃんがなくなった時は、泣いた。でも、それ以上に、母が憔悴している様な、キツくなった気がしてのは、振り返ればその時からで、しばらくはすぐに泣きそうになったりしていて、ばあちゃんの話は避けたし父がしようもんなら阻止した。
お見舞いには、あまり行けなかった。家族と一緒には必ず行った。車も運転出来ない。今はテスト期間もあって、じいちゃんには任せとけと言われた気がする。行ったって出来ることも分からなかった。何より下手な事をしない方が良いと思ってしまった。
ばあちゃんが尽きる最後には立ち会えなかった。テスト期間が終わって、チャリで学校から帰ってくる矢先に、知らされた。
何より覚えているのは、冷たくなった分厚いゴムみたいな手の感触だった。
ばあちゃんが弱っていくにつれてじいちゃんは変わっていったが、
まず亭主関白から、よく動くようになった。料理も作るし、外にも出る。外を歩けば友達をひょいひょい作る怖いもの知らずだった。
なくなった後も、落ち込みは勿論あったと思うがお墓やなんや母と話しあいながら、習い事は続けていた。本当に、何かあった時の心の支えに、趣味は必要であると思う。その時間だけは楽しそうだった。
中々立ち上がれないのは母だった。完全に理解は出来ないが、出来る事はしようと思っても限界があった。そういうのはやはり姉妹が向いていた。任せる事にした。
それでも頑張り続ける母であったが、ようやく受容が出来てきたかな、過去の話も出来てきたかな、と思った数年後あたり。
「もしもし、今から」
いつもの電話で、違和感を感じた。
その日は、多分なんでもない日だった。しいて言うと今度は高校のテスト期間だったか。気になる男の子と一緒に帰れた日だったか。
母が仕事から帰る電話をしてくれた時だった。
「え?なんて?聞こえん」
「何か、左手が痺れてて・・とりあえず帰る」
妙に小さい声だった。舌ったらずな、呂律が微妙に回ってない。
もしも今その状態を目の当たりにしたら、ハッキリと「それは早く病院!!!!脳かも!」とか言えたかもしれない。
車の音がして、玄関のドアを開けた先には、バック途中で車を止めて、ドアを開けた状態で外に座り込んでいる母を見た。
「何してるん!!!!!!!!!!」
今でこそ笑い話にはされるが、これが高校生の私がかけれた精一杯の言葉だった。そこはどうしたん、だろうが馬鹿。
その日、超絶良いタイミングで帰っていた兄と超絶良いタイミングで帰ってきた父がいたが、丁度そっち系に関わる知識を勉強していた兄である。すぐに察して母をお姫様抱っこして、帰ってきた父に声掛けを怠らないように、そしてこっち側を支える、とか言って私には連絡を頼んだ。
これだけは言っておく。人間は経験と知識があれば、冷静に対処できる。慌てる人は何をして良いか分からないから慌てる。
生まれて初めて救急車に連絡して、じいちゃんも呼んだ。
兄は母に、脳卒中かもしれんから麻痺が残るかも、こっちに、と説明していた。今思えばすごい事だと思う。誰も知らずにパニくってたらと思うと恐ろしい。
救急車には父とじいちゃんが乗って、兄と私は家に残った。
「大学、行けんかもしれん事だけ覚悟しとかなあかんかもな・・」
と言われたのに驚かなかったのは、その考えもあったからだった。命に別状はないと医者でなく兄が言った言葉でも落ち着きを取り戻したが、叔母が足にハンディがあるから全面的に「分からない!慣れてない!」とは思わないし普通に関われる自信しかなかったものの不安だった。
これからどうなるんだろう。
ご飯を作って、掃除して、買い物して、払い込みして、働いた事もないのに生きてかないといけない。どうやって。
それは、今まで母が全て行ってきてくれたからこその無知だった。今まで私はのうのうと彼女にそれを任せて負担を軽くすることも務めずに堕落して生きてきてしまったのだ。
収入は?いつもどの位使うの?やりくりは?父が会社を休んでしまったら?病院って何を用意するの?洗濯は?習い事どうしよう?
疑問だらけで、不安は募るばかりだった。
とにかく、大げさだとは思うが、生きていくことに必死だった。
早く、母に帰ってきて欲しかった。
母がいない間、自分がいかに怠惰だったのかを思い返しては嫌になった。習い事の先生から、「しっかりしなさい」と言われた。もっと若い子だって頑張っていると言われたけど、どうも飲み込めなかった。
兄は好き嫌いが多かった。父も食べてくれない時があった。父がインフルで休んだ時は、お給料が月に出るとか有給があるのすら知らなかったから、絶望したし、あちこち自転車で走り回って食費を頑張って削っても、普通に500円のお菓子を勝手に買われた時は怒りが抑えられなかった。
毎日、毎日、雪だって雨だって関係なくお見舞いに行った。車を運転出来ないから自転車しかなかった。すがる様な気持ちで会いに行ったけれど、いつも病室の母を見るとそんな気持ちにすらなれなかった。
(うつぼの生涯と被っているかもしれない。)
学校は短縮で幸い良かったが、自分はこの楽しく友達と遊ぶ約束をしている友達とは違うのだと思った。今、そんなこと考えられない。
きょうのごはん。かいもの。ふりこみ。貰ったものの消費。今度のお見舞いの時に持って行くもの。それだけが頭をめぐる。
唯一の癒しは、じいちゃんの家で一緒に食べるお昼ごはんだった。イチョウいものとろろ飯と南蛮漬けは、今も大好きだ。
母が無事退院し今の状態になるまでに色々あったが、基本は自分より意欲のある人なので心配はしていない。ただ、抱え込んで無理はしないで欲しいと思う。
どちらかというと言葉よりも音で印象を覚えてしまうタイプの私にとって、やっと救急車のサイレンが普通に聴ける様になった頃には、今度は知らぬ間にじいちゃんの身体にガンが広まっていた事を伝えられる。
ばあちゃんと違ってじわじわガンは進む。表面は徐々にやせ細っていっても元は変わらない。多分、そっちの方が本人も、周りもつらかった様に思う。
ここまで一気に言ってしまったが、私は死ぬ前のばあちゃんに沢山会えなかった自分をひどく後悔していたし、母の様子に気づけなかった自分もひどく責めていた。いるからと安心して放置していては、何か起こった時にこうすればよかった、となってしまう事を知ったのだった。
だから、じいちゃんが入院してからは仕事終わりに毎日病院に通った。車の免許も、ばあちゃんの時に母の足になれなかった自分と、母の車いすを手で押す事しか出来なかった自分が嫌ですぐに取った。それが今回は役に立った。この時のために取ったようなものだった。
正直、母が倒れてから今まで、じいちゃんが自分の心の支えだったじいちゃんは自分に甘かった。頑固でワガママでくせの強い人ではあったけど、唯一「頑張れ」と言ってくれて、不安になったら「大丈夫」と力強く言ってくれる人だった。
母はまだ自分の身体でストレスに思う事もあった。疲れている時はじいちゃんとケンカする事もしばしばあった。兄も父も忙しい。私は、仕事終わりにどれだけ短くても必ずじいちゃんの所へ母と一緒か、ケンカしてたら自分だけでも洗濯を持って見舞いに行った。
耳が遠くなっていったじいちゃんは声もデカくなっていったが、いつも自分や他の孫を自慢したり、色んな人としゃべっていた。それが無理をしていたもかは分からない。ただの私のエゴだったのかもしれない。
仕事でやった懐かしい歌を教えて貰ったり、教えて貰える事は話をなんでも聞く様にした。やや認知がズレてきたのか要求や言い出す事が家を買うだの現実味をなくす時もあったが、それでも話を聞いているとまぎれもないじいちゃんだった。
趣味の墨絵の下書きを描いていた。病室の机を真っ黒にして、描いていたのは昔から見ている好きな絵だった。毎日、数分だけでも話に行った。
そんなある日、外出の許可が出た。
医者の言い方からして、これが最後だろう、とは思った。
その日は母と二人でじいちゃんの家に泊まった。
多分どこかで書いたが、夜中に起きたり暑いだの寒いだの大変だった。
つぎの日、調子が良いと味噌汁を作ってくれて、食べて公園に2人で行くと、「久しぶり」と友達になった人らしき人としゃべっていた。
喋り終わってから、公園の入り口の、今は古ぼけた椅子に2人で座ると、じいちゃんの呼吸は全力疾走した後の様なゼエゼエとしたものだった。
よく見れば、そこに活気など見られなくて、なぜか自分には、ああ、と察してしまった場面であった。
「あんな、お前が生きていく上で、これから絶対に人前で手帳を開くなよ」
「お前のおやじは、あれはあかん」
と、言われたのを覚えている。
色々思う事はあるけれど、そういわれたのがじいちゃんのハッキリした最後の言葉だった。
その後は帰宅した後病院に戻ると危篤状態に陥り、状況は一変する。
そして、一時帰ってきた叔母がその状態を見たと言うのを私だけに知らされた。
数日後、1週間も待たずに11月の晩、私の家族と従妹でじいちゃんがハクハクと金魚みたいに苦しそうに口を開けて、それでもまだ息をして生きようとしている姿を、声をかけながら見守る。
いつか来るなんて、毎日顔を見ていたから分かっていた。日に日にやつれていく。変な事を言う時もある。ちょっとで息があがる。
母が中々来ない叔母に対して「良い所だけとっていく」と愚痴をこぼしていた時があったが、気持ちは分からないでもなかった。状況が分からない人ほど泣くのだと、その時と、葬式で初めて思った。
好き好きに泣いている親族と、近くにいて必死になお声をかけようとしたりこらえている家族は違って見えた。悲しい。涙は勿論でたが、今自分が母以上に泣いてはいけないのだと必死にこらえた。
息がやすらかに止まって、医者が死亡時刻を言うと、私は母を支えるために自分がやれることを考えるしか出来なかった。彼女が泣く代わりに、自分がしっかりしないといけない。多分それは兄も同じ気持ちだったろうと思う。
細かい所は母と叔母でしていたが、じいちゃんの家にある者の位置を把握はしてたので片付けには参加出来た。形見を発掘した。
内容的に入り込めなかったが、送迎や手伝い、肉体労働と、その場についていくことくらいは出来た。何か、葬儀屋の話を聞いた時は自分も将来こんな時がくるから覚えとけよ、と言われている気がした。
1回忌、3回忌の親戚の集まりも催した。店選びやら、予約や準備をした。
もうその頃には「女は動くもの」なんてルールを嫌っていた事すら忘れていた。負担が軽くなれば良いのだ。
働きだした時は、すぐに人がなくなって深くショックを受けた時がある。
職場的にそれは避けられなかったし、じいちゃんがなくなった時は他人の死に何度も直面した後だった。
人間はいつか必ず死ぬ。そんなのは分かっている。
それはいつか分からない。今日かも・・とかそのくだりは死ぬほど聞いたことがある。
誰に言いたい訳でもなく、ただ再確認でここに打っているのだと思いたい。
どんなに面倒な人でも、身内は特に、良い思い出があったりお世話になった人だと思ったら、自分が良い状態で、その人にとって行って良い状態ならお見舞いだけは欠かさず行くと後悔は残らなかった。いけない時は仕方がないけど。
ばあちゃんに未練はあるけど不思議とじいちゃんには全くない。見舞いに毎日行ったからだと個人的には断言する。
エゴというのも分かってはいるが、人と関わる上で自分が出来るのにしなかった事を後悔したくない。「知らなかった」であまり済ませたくない。
勿論、あって欲しくはないけど友達が入院した日にはすっ飛んで行こうと思うし、情報をいち早くつかめたら良いなとは思っている。
一期一会とは言うけれど、その人といる時間の全てが同じものではないと思うので、大事な人達と大事に過ごしていきたいと思う。
会えなかったことを後悔するよりは、会った方が良いと思うし、そのきっかけは自分から作ったっていいじゃないか。今は難しいけど。