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身内ってなんだ

実家を離れて自由な気分を初めて味わったのは、昼間から床に寝ころんで、風がふわっと前髪を揺らした時だった。


元々、畳に寝ころんでカーテンをふわっとさせる柔らかい風を感じるのが好きだった。山で大きな岩の上に座って、リコーダーを吹いて感じる爽やかな風も、おばあちゃん家の縁側で出した足元だけに吹くこそばゆい風も、好きだった。



皆さんは、家族や身内が好きだろうか?私は好きだ。

色んな関係性の人がいるだろうが、それぞれ捉え方があると思う。



私が小さい頃から、家族は一緒にいるものだと教えられた。家族だけじゃない、何かあると親戚やその友人、友人の娘も入ったり、大勢集まる時も多かった。大勢でいると楽しいよ、とか。そしてそれは年間行事のように立てられていた。


友達からはよく羨ましがられた、お手本のような家族だったのかもしれない。


小さいころは、大勢いるのが楽しかった気持ちの方が大きかった。それでも頑固で負けず嫌いな自分は勝負で1番が良かったし、兄に人が集まることを知っていたから嫌になる時があった。母が中々その輪にいなかったことも何となく、知っていた。


父とちゃんと遊んで貰った記憶は高い高いくらいだろうか。すすんで動く人ではなかったが、ビデオや荷運びはしていたのを覚えている。



そしてそれは、年齢を重ね、分かってくることが多くなってくると捻じ曲がる。


何より、私はそんなに大勢が好きでもなかった。


うつぼの生涯を読んだ方は分かりやすいと思うが、小学生になって一人でいる事が別に苦でなくなった時、家族で一緒、が楽しくも、自分の意思ではない事に気が付いた。

練習というやる事が出来て、「一緒」が自分の中で崩れていったのだ。


コンクールに出ようものなら・・という事もなく、「一緒」は続く。


必死に自分のことをしようと思えば思うほど、「一緒」は邪魔になる。


やがて受験やなんやで従妹が恒例行事にこれなくなってくる。母は文句を言っている。私は、羨ましかった。その割に比べるんだもの。


大事な時でさえ、一緒は続く。嫌みったらしく「行かんの」は兄からも出る。その時による。私も「今やりたい!」と思ってしまった時にはしないと気が済まないからややこしい。

一度、やっと一人になれた時があった。涙が止まらなかった。どういう感情か分からなかったけど、とてもあっけなく行かれた記憶と、多分喜んではいなかった様に思う。


自分は「一緒」にいなければ家族を、主に母を不機嫌にさせて、自分が悪い様に思われてしまうと信じていた。

その頃は、彼女が忙しいなんて具体的に分からなかったし、「一緒」である事が何か違和感を感じても、それが正解なのだと思うことに疑いはなかった。


うちは、「みんな一緒」がモットーだった。それはそれでよかった。


父は流されるままだった。それもそれで良かった。


でも、ピアノしたら喜ぶのに、他人に聞かせたいのに、恒例行事は絶対参加なのは意味が分からなかった。来ない従妹の変わりに私達は絶対参加だったのが分からなかった。

親戚が来たって動けるようになれば裏方だった。うちは女が動く古い考えの家だった。悪いとは言わない、でも、私達が動いてる間、みんなは楽しそうに喋っていたし、私はそれが出来なかった。母もそうだろう。

中々来ない従妹たちとみんな嬉しそうに喋っている様に見えた。

次第に羨ましさが恨めしさに変わるようで嫌だった。本人たちはとても好きだからだ。


時間通りに来るハズもない親戚を、機嫌の悪くなる兄やじいちゃんを相手にしながら母や時々父は送り迎えして、裏方は主に母と私でやった。この時にはそれでも当たり前の様にやろうとする母を見てられなかった。それをハッキリ感じたのは、中学生になってようやく車の送り迎えがなくなってからだっただろうか。

集まりに必要な食材や出前、お菓子、酒は私と母で用意した。叔母も来てくれたり、「頑張ってるね」「ありがとう」と言ってくれても、従妹たちが動くはずはない。叔母の言葉は届くはずもなかった。


しかし一つ、言いたい事がある。私は身内が基本大好きである。

縛るルールの、亭主関白の様なこびりついた概念が嫌いなのである。


シンエヴァを見た人はいるだろうか。


2度目にはなるが、私はゲンドウの言葉に深く共感している。親戚だって家族だって、今の考えかもしないけど、ルールに従う強要もなければそんなのはくそくらえだ。



家庭環境を見直すにはかなり時間がかかる。実質、自分もその血を引いているし、環境にいるから動けてしまうのだ。そして、私の頑固さは母譲りである。

故に、母も癖のように動く。そしてそれはこびりついて自分の頑固とくっつく。




そのがんじがらめが一番しんどく感じたのは、いつも自分が自分でこうしたいと心から願った時だった。大学生にもなってやっとである。


自分に時間を割くと相手がおろそかになる。私の身体は一つしかない。


彼女を手伝う人は身内に、身近に私だけなのかもしれない。女の子だからこれは出来るようにならな、それはこう、これはああ、こんなん


うつぼの生涯と重なるが、彼女の身体が不自由になってからは余計だった。やっていたことが出来ない自分にストレスをいつも感じている。おそらく今もあるんだと思う。それは、ひとえに全部自分で抱えてきた結果だという見方も出来るし、させてきてしまった結果ともいえる。


彼女は、自分の障害を受容しきれていなかったが故だとも思う。そして、誰もがそれに頼ってきてしまった。自分だって同じだと思った。深く、反省したから、私は動く方に迷いなく変われたのだと思う。


やりたい事をを汲み取る。届かない。汲み取る。やり方が違う。汲み取る。思っている完成度と違う。汲み取る。ならこれも。


分かってはいたけど、思った以上に彼女のしていた事は多かった。それを頼ってくれるなら良い。でも、彼女は何でも間でも任せたくないし、こだわりがあった。




家族は、身内は身近である。一番なんでも言いやすかったり、逆に近すぎて言いにくい事もあるかもしれない。


自ら縛られにいく様な気持ちで学生生活が終われば直帰した時期が長くあった。腫物を扱うみたいに、Yesマンになった。


でも、やっぱり、自分のしたい事に必死になるとおろそかになった。


今回は彼女の念願もあって、それを批判された様に感じてしまって、初めて反抗した。自分も必死だった。限界も感じていた。泣かれた。

それが1回あり、2回あった時には、彼女のために動くことに思考を放棄することにした。文句言われても「これやったら良い?」と明るくいう様に振舞って何も感じないように捨てた。執事の様に動いてるほうが楽だった。


学生が終わり、社会人になるとその化けの皮はより厚くなって、家でも他人の人格でいる様な気がした。大学の友達といる時間が何より幸せだった。

職場でも別の人格を作る事にした。明るい、歌のお姉さんと呼ばれる人格だった。

兄が結婚して家を出てから、父と母を取り持っている様な気分だった。


叔母が海外に行った。従妹はそれぞれやりたい事を仕事にして散り散りになった。好きに動くけど、時々母が喜んで迎え入れるからご飯を食べに来てくれる。正直、母の都合で用事を入れられている感覚だったし、仕事終わりも関係なかった。

叔母の変わりを母がしようとしていた様に感じた。従妹は大好きだ。心から。でも、今その心がついていかない。身体はついていくから、表情だけ気にする様になった。

の割に、読んだ本人が疲れている。いや、そりゃ何するにも体力はいるけれど。



じっちゃんが入院してから死ぬ直前まで、私は母といた。葬式で彼女は取り乱していた。私は精神的な依り代に頼りなくてもなるしかない気がして、歯を食いしばってこらえた。墓参りも、その数日後、無神経にじっちゃんやばあちゃんのおもいでを母の前で遡ってきた父の歯止め位にはなっただろう。自分の立場で考えないのかと父に強い怒りを覚えた。



しかし彼女はとても立派で、何事にもチャレンジ精神を持つ人だった。無事受容が本人なりに出来てからは、仕事や学校や色々動き出し、自分なりに立ち上がっているのだと傍らで見ていた。


一度職場でこんなことがあってとかで、泣きだされた事もあったが、話は聞いた。きっと、どこかで自分がいないとダメだと思っていたのかもしれない。


それでも彼女の期待に応えられた事もないのに、彼女のやる事をしようとしている自分もそこにいる事に気づいたのは1年たった辺りだった。



その頃には実家に帰りたい気持ちなど微塵もなかった。道端で座り込んだり、玄関でよく立ち止っていた。

従妹が久しぶりに遊びに来てくれた。上手く笑えなかった。申し訳なかった。でも、父母は楽しそうで良かった。


叔母とも連絡を取っているらしい。姉妹は大事だ。相談も出来ているらしかった。良かった。


じゃあ。



じゃあ、私は?



そう気づいた時には、予定を不安で埋め込んで、職場でいろいろ打ちのめされ、疲れたら手が震えて、ロクに寝れた気もしないで朝に起きれない自分がいた。


もう、どうでもよい。と思った。



彼女の考えていることも全部なんか分からない。だって。




他人。だから。




そう、身内だから、家族だから全部わかる訳じゃない。結局は他人。他人でしかない。自分じゃない。自分のことだって相手にはわからない。他人だから。


そう思ったら、一気にもっとどうでもよくなった。




なあんだ。これは、お互いに関与しすぎていたかもしれない。



と、これが「共依存」ワードの突出だった。って話は何となくした気がする。



と言いながらも、自分だって認めてほしい部分もあったのかもしれない。




それからは、自分のしたい事を大事にする様に努めた。幸い友達に恵まれているので、そこんとこも沢山助けられた。


彼女の「これやって」はNow、今すぐに、が全てである。

変わったのは、今言われている事が自分を基準にして今出来るのか?と考える様になった事だった。やってしまった方が良い時はすぐにする。出来そうな事もしておく。快くしていくと、逆に気遣ってくれるのは彼女の優しさである。


となると、用事が緊急性でない事も気づく様になって、一度イラつきながら言われたので自我が出ちゃって「今は無理だ」とハッキリ言ってしまった時は、文句言われたが考えなおしてくれた様だった。練習は遊びではないのだ。


対1人のはなしがやっぱり多くなってしまうが一番関わっている人である。仕方ないとは思っている。





さて、ここから初めて「家族」の別の在り方を知った話をする。


今、私がこうして潰れずにいるのは大事な友人をはじめ、知人、縁があって今の主人と出会えたからであるけれども、家族の在り方を「一緒」でしかよしとしなかった自分にとって、

「人生に1回しかないから、二人で考えて、良いと思ったものを好きなようにすれば良い。私達はそれを手伝うから」と言われた時には泣きそうになった。


主に式の話ではあったが、実家からはこうが良いなあとか言われていた時期であったし、最早誰のための式か分からなくなっていた時だったのもある。主人も私と同様ここぞの時だけかなりの頑固ではあるが、基本主人家は自由にさせる方針だった。どうせ聞かないし、とは言われていたが。

そう思えば、私はそれでもこうだ!と思うまでもなく敷かれたレールをそのまま歩いてきたし、それが間違いとか、自分の意思とか、考えず、疑わずに歩いてきた。そうしなきゃいけないし、そうすべきだと思っていたから。


自分のこうしたい、をこうも簡単に受け止めてくれる事に何か思ったのだろうか、その寛容な受容に、ああ、やっぱりここの家族であの人は生まれたんだなと思った。うちにないとは言わない。言わないけど、何等かあるとは分かって言えなかった事なんて山ほどあったから。



身内は他人であって、身内であった。





人がする行動には必ず何等かの理由がある、とは、私が苦し紛れに出した答えではあったが本当だと思う。


家族、そうでなくても、近い人ほどしんどい事もあるかもしれない。




でも、今も自分の中では家族は他人だと思っている。他人だから分からない事もあるし、だからこそ聞いたりしなければいけない。近いならなおさら。




分かってもらえるなんて、自分も分からないのに他人が分かる訳がないのだ。


だから、私たちには口があるのではないだろうか。









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