クリスマスの離脱

昔、家族がみんなで買い物にいこうと言ったのを頑なに断った記憶がある。



何で、しょーもない、ぶつぶつ文句を言われる中、行かない自分がまるで悪いかの様に口々に文句を言われる。ほんまにいかんの、なんで、と繰り返し、言われる。

思えば前回の記事でもこの様な話をしただろうか。結局は同じことのめぐりが今になって反芻されて、消化しようとしているのかもしれない。


自分は買い物に行きたい気分ではないし、練習がしたい。



散々空気を悪くされた様な顔が外に行って、一人玄関先に残った自分は、やっと解放された気分になったのを覚えている。


やっと、一人になれた。



反抗期もない。喧嘩もした事がない私がおそらく唯一一番自分を貫いた瞬間。大げさに思えるかもしれないけれど、それが20歳になるまで一度きり、自分の希望が叶ったと強く意識した瞬間だった。

その日は、玄関先で、罪悪感と開放感に押しつぶされて泣いた。




誕生日プレゼントは別に欲しいケーキがない。

特別な日の晩御飯が豪勢でなくても良い。

貰えるものは嬉しいけど、そんな頻繁に選んでまで欲しい気持ちが沸かない。

欲しい物は自分で買いたい時が多い。

特別な日は家族で一緒に必ずすごしたい訳でもないし、どこへ行くにも家族一緒だと嬉しい訳でもない。

ましてや、楽しいとは思うけれども、みんな一緒にいるのが得意な訳ではない。

気を遣うだけだし、自分は動かなければいけないと分かっているし、母が動くのに兄も父も動かないのが分かっているから。

それよりも母にせかせかしないで欲しい。疲れた反動が来ない方が良い。


何かしてあげたい母親にとっては、何とも味気のない子供だったのかもしれない。


けれど、母と同じなのか、私だって、私が好きそうな物を選んでくれる事は気持ちとして嬉しいけれど、似合うと思ってとかあげたいとゴリ押しされて分かってて趣味じゃないものを身内から渡されるものを受け取りたい程のやさしさを持ち合わせてはいないし、「あげたい」感情を発散しようとされても困るし、逆に嬉しくないのかと文句を言われるのが嫌な気持ちになってしまう。嬉しそうな反応をしないと文句言われてしまうので、そこまでなるともう受け取りたくなくなってしまう。

欲しいものがそう出てこないだけで、ちゃんとある時はあるのである。



今年は良い歳したアラサー手前の女が、今年のクリスマスはようやく実家で過ごさないと伝えることが出来た。

やる気が失せたとか、来ないのとか文句を言われたが、なんでと聞かれても行きたいとは思わなかったからであるし、「無理していかなくても良いんじゃない」と、行きたくない気持ちを受容してくれる場所があったからだろう。

どうして、特別な日の時間ですら決められなければいけないんだろう。


別に、嫌いじゃない。楽しいとは思うんだと思う。

行った方が喜んでくれるから、行った方が良いんだとは思う。

でも、そう思った時点で自分の気持ちじゃないね、と言われてしまってハッとした。

誰かのために行く用事ほど頑張って楽しそうにする物はない。


自分自身が行って良かったとか楽しいとかよりも、これしてる間にご飯やってとか、工程に関わったりそのタイミングを助けるにはこう動けば良いか、と自分が動く事ばかり考えている。

ご飯は美味しい。美味しいものを注文してくれる。お金もかからない。きっとプレゼントもあって、良くしてくれるんだと思う。ゲームもする。


でも、終わると疲れてしまう。いつもそうだ。結婚して実家に行っても、帰りには疲れてしまう。ゴロンと出来る訳でもないし、以前より自分の都合に動けたってどうしても手伝いもする。その方が家族が助かると分かっているから。


この日には、これっていう流れに疲れた。自由にしたい。楽しい時間は自分で決めたい。多分、楽しみ方が違うのだ。決められたくないし、外にも行きたいし、みんなが集まっていると自由に動けないから嫌なのだ。


だから、今年のクリスマスは自由にすると決めた。


でも、プレゼントは用意したので事前に渡そうと思う。


勝手だろうか。よくわからない。



クリスマスは大好きだ。イルミネーションも綺麗だし、冬の恰好は大好きなチェックが着られるし、白いマフラーもある。外の景色を眺めながら温かいものを飲んで、寒さを感じながら温かい気分を味わいたい。たまには美味しいものを食べて、色々見に行きたい。欲しい物だって買ったら良いだろう。

片付けも簡単にして気にせずに、美味しいケーキを作って夜は遅くに温まってお風呂に入って、好きな曲を聴いてドライブも良いかもしれない。可愛い雑貨を出して、プレゼントをあげて、私だって喜んで欲しい。自分の時間で。


今年は、心から楽しいクリスマスが過ごしたい。



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