就活

と言っても、私は、就活をちゃんとしたことがない。ロクにエントリーシートを書いた事もなければ、集団説明会に行ったこともない。

なので、それまでの経緯を4回生に戻って、言うことにする。


その頃、元々人の心理に興味を持っていた私は、まだ人の役に立ちたいという願望も捨てきれずにいた状態で「音楽療法」の授業に出会った。

先生は臨床心理と音楽療法を専門とされていて、ワークもあって楽しかったが、それ以上に音楽をリハビリの一環にする発想は面白かったし、何より母のリハビリに使えると思った。

奇跡的なタイミングで兄はリハビリ系の職についた為、片麻痺の母の状態をよく理解していたし、母が入院中リハビリの必要性は分かるが同じ事を毎日するのにやる気が持たないと言うのを聞いていたので、好きな音楽を取り入れれば兄の持つ知識と混合で使えると思ったからだ。

勉強をすすめ、先生が別で行っている勉強会にも参加していると、人の精神や身体、病気にも興味を持った。勉強は眠たかったが楽しかった。


一度、先輩からクソみたいな伴奏案件を引き受けてしまい辞める時には泣きながら電話を切ったが、今思ってもあれは無理矢理でも切って正解だったと思う。楽譜をコピーすらさせてくれない、大学の先生の悪口を言いまくる、独学で音楽をやった人の指導だった。全て悪いとは言えないが、人の悪口を周知させようとする人と、高圧的な人は苦手で、初めて口頭で震えながら思ってもない嘘をついた。しんどかった。


勉強するにつれ、音楽療法の先生から「施設で伴奏を探している人がいるんだけど、やってみない?」と言われ、授業の空き時間に北の方に向かっていた。
そこは穏やかに、おじいちゃんおばあちゃんが音楽を楽しんでいた。コードや初見を頼まれたが、お茶の子サイサイだった。先生がたまに違う調を歌うので、移調した。
少しでごめんねと言われたポケットマネーは、私にとっては温かいものだった。
ボイストレーニングも一度お邪魔させて頂いた。

何より、伴奏前にそこの近くのパン屋でゆったり柚子茶を一人で飲んで休憩するのが癒しになった。焼き餅もたまに食べたり、薦められてパンプスで山を登ったり焼き栗を食べた事もあった。


祖父母のおかげか、静けさのある街で大好きな自然にすぐ触れられるのは大きかった。

その後一度跡継ぎ選びに失敗したが、最終的に穏やかな良い子が継いでくれて、学会で声をかけてくれたのは嬉しかった。




しばらくして先生から、「卒業生が退職するので跡継ぎを探しているけど、行ってみない?」と言われた。

大学卒業前だった。

その頃の私は、先生の紹介で奈良に子供の音楽療法を見学&参加しに行っていた。即興と初見が出来るのは良いなぁ来てほしいなぁと言われた。勉強になったが、朝5時起きで終わる頃には寝かかっていたのを覚えている。

あのときあそこにいれば、今や学会の役員手伝いをしていたかもしれない。


就職は、奈良で音楽療法するか、大阪の施設になった。


個人的には勉強が出来る環境の奈良に行きたい気持ちもめちゃくちゃあった。が、私は、早く自立がしたかった。

結果的に、経済的自立を選び、施設に勤務する事にした。



母親はやめろとは言わないが、海外やら進学やら、コンクールやら、音楽を続けたらと何度も言うようになった。賛成はしていない様だった。

実質、そういう子が殆どだった。就職する子は4回生を卒業して就職していた。


でも、自分はバイトをしたこともなければ社会経験をロクにしていない。早く社会人になって家から少しでも自立したさ故に、常勤として音楽活動と並立するのを決めた。

そこからは早かった。


職場見学・書類提出・筆記試験・実技試験....


試験の時点で、応募者が1人枠の2人応募だと知った。しかも相手は音楽療法専門の学校。いやいや落ちるだろ。

緊張するなとか言いつつ、それでも一人よりは良かった。前任者が美人すぎて一緒にいる空間が幸せなのに、施設長は徳永家康のような、第一印象から、言った事によっては裏をかいてくる侮れないタイプだと本能的に確信したし、間違いではなかった。


私は、まだ資格は持っていない。働きながら取ると伝えて面接にのぞんだし、「資格を取るためのサポートはさせて貰う。学会も出張で行けば良い」と言われたのを覚えている。資格を取る為の費用も出ると、前任の時も出たと聞いていたしちゃんと覚えているのだ。そして、隣に事務長が何か書いていたのも知っている。


ここで、社会人として知った事がある。
「記録」を逐一残しておく重要性と、その記録は、書かれた事のみが真実として示されると言うことだ。つまり、公的な紙に書かれていなければ「言ってない」という証拠になってしまう。

この事が後にややこしいことになる。



就職試験はまさかの2人とも合格、試用期間が始まり、卒業試験を終えて卒業式を待つだけの私は、先に2月から引き継ぎをして貰う事になった。何せ、前任者は一人でこなしてきたのだから、いなくなれば聞ける人がいないし、私は実際音楽療法をしたことがない。

しかし、入園者と関わるのは各ケアの際に人ごとに注意点は覚えなければならなかったが、母と関わってきたおかげか全く問題なく思えたし、よく気づくと生まれて初めて言われた。

自分が知ってれば楽譜にもしたし、すぐに弾いた。歌はまだ声が出ないが、外面は良くできた。人見知りするらしい子が話しかけてくれる様になった。名前は特徴で覚えた。基本皆人と関わるのが好きな様であったのが助かった。
前任者が美人で優しすぎて癒されていた。結婚前らしく、丁度その時期に兄弟も結婚式を控えていて、色々話ができた。

余談をすると、兄弟の結婚式の準備でめちゃくちゃ手伝いしたので、当日制作者として何度も自分の名前が呼ばれたのはいうまでもなく恥ずかしかった。ウェルカムボードも描いたし、プチギフトのクッキーも100枚焼いたし袋も夜な夜な飾り付けしたし、演奏もした。
それで終われば良かったがブーケは引いてしまったし、お色直しの退場で呼ばれて申し訳なかった。


前任者とピアノの話が出来た。学外でクラシックの話が出来るのは貴重だった。後に新郎となる男は、眠たいのか休憩中はほぼ机に突っ伏して寝ていたが、とても背が高くてぽっちゃりして、くまのプーさんみたいだった。研修中は私が間違って出勤した時の一回しか話さなかった。慌ててすぐに帰った。


3月になるともう一人も研修に入り、優秀さに申し訳なさを覚えながらもできることをやったつもりだった。


いよいよ研修終了で、4月から本格的に働く少し前、所属する部署が施設内(施設の管轄が複数ある)を跨ぐので、別の場所に部屋が出来る事になった....部屋、うん。部屋。

後の新郎がリーダーとして、先輩が4名と、私たち2名が部署のメンバーとなり、和気あいあいと楽しい部署が出来た様だった。このメンバーは今でも大事で、ここにいなかったらとっくにメンタル壊れていたと思う位、ありがたい部署だった。

ドキドキして本当にちゃんと社会人が務まるだろうかと落ち着かない中、ある日、前任からメールが来て見てみると、音楽療法を各施設に1人ずつ置く事になったという内容だった。

施設には、色んな区分があり大きく分けると3つの年齢や障がいなどの分野に分かれて建物がたっていた。

研修したのは、前任者がいた所のみ。そこか、高齢者の所かどちらが良いかという事だった。


私はどちらでも良いと言った。やり方は教わったが、専門の学校を出た子が前任の所を引き継ぐ方が、入園者にとって最善だと思ったからだ。

結果、その通りになり私は基礎知識もままならないまま、高齢者施設で1から音楽療法とやらをする事になった。


ここに入社する条件として、連携を図る為に他の業務も兼務であった。といってもメインは音楽なのはありがたかった。
恩は売っとくか、とばかりに色々する事にした。



辞める時に聞いたが、本当は、前任も入園者も自分に来てほしいと思っていたらしい。ありがたいことだった。

経歴から見て、施設長が選んだ様であるし、試験の時の私の点数は出る範囲も分からず、悪かったらしい。




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