自分のままで

職場が変わって、ようやく直面出来たことがある。





先に言っておくと、今の職場は自分にとってはスーパーホワイトである。

分かりやすく熱心な指導もちゃんとその都度あれば、親切に教えてくれる他職員に朗らかな雰囲気、細かいことに気づく人が多い職場で母の様な温かさを感じられる。そして、話は最後まで聴いてから返事をくれたり、多少そりゃ人間なので波はあるけど、いわゆる「一般常識」を一定に持っている社会人が集まる少数精鋭部隊である。


未知で悩むことも多いが、サポートが協力すぎて拝み倒したい。



今、障害に関係している仕事にいると、自分との共通点をよく見つけたり、自分の人生や育ってきた環境、人格を見直すことがめちゃくちゃ多い。そうでないと指導が出来ないからだ。(本来は指導とは言わないが、ここではそう呼ぶことにする)

正直、雑務に追われている1か月の方がまだ楽だったのかもしれない。


指導に入ると、他人を指導するには、自分ならどうするか、どう伝えるかも考えなければならない。それは、その子のためか。その子がよりよく生きるためにはどうすればいいのか。なにを教えたら良いのか。

理想なんていくらでも挙げられる。気持ちを言葉で伝えられる様に、自分に自信をつけられるように。ありがとうと言える子になる様に。優しい子になるように。人にやさしくできる子になるように。素直な子になるように。


こういえばいいんだよ、こう思った、どうしたらいいんだろう?


先輩の先生が、上手に上手に声掛けして関わっていく。


働いて1か月もたたない内に、自分は大きな壁にぶつかってしまう。



何でって、自分はそう育ってきてないからである。



指導と言えど、基本は「何故その子がそういう事をするのか」理由を考えて原因を改善していくお手伝いをする仕事であるが、基本全員の共通点は「自信のなさ」であったりする。それに絡んでくるのが特質であったり、環境であるのだ。

つまり、「特質」は関わり方の工夫は出来るが変えられるものではない。その子の個性になる。何だかヒロアカになりそうかなあ。


先生たる職業に就く人が壁にぶち当たる、と先輩に聞いたことがあったが、いわゆる私の母も「先生」業であり、同じ様に私と同時入社したマダムも先生であった。「指導」する立場の人間からすると、一部は「何故」となりにくいと考えられるそうだ。

私自身、自分の気持ちをピアノで弾いても「ダメ」「練習しなさい」だった。これをしてはダメ。それはいい。あれは好きじゃないと言われた事もある(いや個人の意見ンン)。それを素直に聴いてきた身からすれば、「何故」という思考は新鮮だった。

いや、友達や先生がなんでこう言ったのか、いっぱい考えることはいつもだった。表情が少し曇ったとか、目が笑ってないとか、この言葉はこういう意味だったとか、自分がこういったのがどうだったとか、一人反省会みたいにずっと出たリアクションに対しての「何故」はマイナス思考ではあるが自分が一番考えている。


でも、正解が分からない。自分の思う事が開いてにとって正解なのか自信がない。



そこに、答えがあるじゃん。でも、それは自分の問題。



ん?こりゃ誰の指導だ?となる初日の感覚は間違いではなかったと後に確信する。




働いて1か月の間、いや初日から指導に入って一番悩んだのが「いいんだよ」「大丈夫」と言ってあげる事だった。

その子にとって受容は必要でも、社会に出れば分からない。裏切られることもあるし、今素直であっても社会は素直じゃない。大丈夫じゃないことだらけだ。それは小学生で知った。


何しろ、私自身が「いいんだよ」「大丈夫」と言われて育ってきていなかったから、それをどのタイミングで何がいいのか分からない。私にとっての「いい」は相手が「いい」って言って初めて正解だったからだ。


同調は出来るけど、共感まではいかない。


自分の思っていることが、本当にそうなのか、信頼できない。相手を丸ごと理解している気になってはいけない。



先生は絶対である。先生に言われて大きくなってきた。だから、最初は先生の真似をしていた。安心するし、それが絶対的な正解だと思っている。


でも、指導の場では不正解だった。振り返りで自分の意見が言えない。それが先生にとって正解か自信がないから、言えばいいのに間違った時を考えると出ない。そうしてきたから?

やっていく事に全て疑問を感じていくのに時間はいらなかった。指導しているはずなのに、振り返りは自分が指導されている気分になっている。不思議だったが、先生が色々聞いて、そうだとおもったのを答える。余計なことは言わない様にしよう。と思えば、意見を求められる。何だか、レッスンみたいだ。


ふとしたフラッシュバックでしどろもどろで単語で出てきた言葉を先生が拾ってくれる。違う先輩が「大丈夫」と声をかけてくれる。何も出来なかったのに何が大丈夫なんだろうか。私は、何が大丈夫なんだろうか。やっていけるんだろうか。不安だらけだ。


余計なことは、指導中はいらない。テンションをあげて、とりあえず作ってみるけれどすぐに見抜かれる。年齢なんて関係ない。私もそれはすぐに分かっている。心を開かれないのは、自分が怖がって心を開いていないなんてすぐに分かっていた事だった。

エヴァのグッズが他職員にはわかった様で、少し心が落ち着く。この人となら話せそうだ。でも、先輩方は、緊張するけど表情に違和感はないし、言葉選びもすごく慎重にしてるし、熱心に教えて下さるし、言わない言葉は場面を選んであるけれど嘘はつかない。それはハッキリわかる。文句は言うけれど悪意がない。何よりその事は、自分にとって徐々に話せる様になり、一番信頼できる様になった理由だった。

申し訳なさも感じながら、1か月自分なりに大反省会を繰り返し、初めてのOJTで自身の課題を文面で振り返るきっかけが出来た。


昔から、字の方が落ち着いて書ける。有難い。


先輩が「言った事に対して正確に書いてくれてるし、本質からずれてない。だから、ちゃんと理解してくれてるんだなって分かるよ」と言ってくれた時は嬉しかった。何歳だよ、と思いながらも、ここは育ててくれる人がいるんだと思った。

調子の良いもので、吸収に必死になれば勉強しだす。とりあえず基礎からかたっぱしに気が続くまで勉強を続けると、気づいてくれるので褒めてくれる。まるで子供のお教室である。そして、それを言葉にしてくれる嬉しさが感じられる。

昔から、「ここがよかったよ」と具体的に言われる方が嬉しいのである。


とりあえず次の1か月の目標は、自分の意見を単語で良いから少しずつ言っていくことから始まった。他にもあるが、自分自身の中で、今ここで変わらなければ一生変われないんじゃないかと思った。折角だ。やってみるかと思えたのは、実家を離れて漢方を飲む様になって、自分の気持ちの起伏が落ち着いてきたからだったと思う。


家に帰るとのほほんとした新郎は、自分の話を聞くと相変わらずごろんとした後、「傷ついてきた事が多かったから、自分を守るために色々身に着けてきたんじゃない?」と言い出したのでそれも目から鱗ではあった。

思った事や本音が出ないのではなく、それを出して色々あったから出さない様に無意識にセーブする様になっていたらしい。ほんまか?


他職員の中に、縁のしたの力持ちみたいな人がいる。一人だけ、「大丈夫」と言い続けてくれるその先輩にも、不甲斐なくて申し訳ないながらもとても感謝している。

その先輩に、今月自分の課題にした「会話を増やす」を相談してみた。自分のことなので恥ではあったが、「自分は他職員とあまり話せていないかも」という悩みを客観的にどう見えているか教えてほしかったのである。

すると、「もの凄く遠慮している様に見える。今まで誰かの下にいる厳しい環境が多かったのかなと話ししてた」と言われて驚いた。「上下関係のある所にいた」とはその時伝えたが、遠慮かあ。

「でも、もの凄く空気を読むのが長けてるから、会話が途切れそうなタイミングでつなげたり、相手から良い印象を与える話し方?言葉を選んで話してるんかなあと思う。」

わあ、めっちゃ褒められた・・?わりと相手の話遮ったりすんだけどな・・・外いきの顔がそれなんかな

と思いながら、そう見えていたのか、そう言葉を選んでくれたのかわからないのでありがとうございますと答える。何だか、すっとしている。


「ものすごく緊張してみえるから、とりあえず雑談から初めてみたら?大丈夫。先生はだいじょうぶよ」


何だかしらんけど、ほかにも色々言ってくれた。めちゃくちゃその言葉がありがたかった。それから最近は何となく力を抜いて話す時も増えてるんだけど、本当に良い所に来れたと思っている。

その次の日から、少しだけ、振り返りも、業務も、雑談も話すのが楽になった。


いつも、その先生は味方みたいな言葉をくれる。それが他先輩が言いすぎちゃう?怒っとくな!とかいう言葉でたまにめっちゃ申し訳なくなるけど、そこは少しの嘘でも嬉しいのかもしれない。決断やなんやで迷っている時に大体言ってくれるからあれだし怒るのはだめだけどな。


少し遡るが、働いて2か月目に自分が主で指導する話が持ち上がった。不安に不安に不安ばかりではあったが、悩みぬいた結果一切を放棄して上手くいったことがある。その時も真正面に自分と向き合うきっかけとなった。


正直、この歳で自分がふたをしてきた気持ちやドロドロした何かに触れるのはめっちゃきつかった。掘り返してほしくない。フラッシュバックしたくない。過呼吸にもなりたくない。なにより、傷つきたくない。


他人が怖い。迷惑かけたくない。他人に嫌われる自分が、いや、他人に嫌なことをしてしまった自分がとてつもなく嫌いだし、殺したくなるし、いない方が良い。指導する時にもそれとはぶつかった。


でも、それじゃ逃げるのと変わりないので「何で」そうなったか考えるしかない。でも、言語化するまでやっとこさだった。でもそう思うと、自分が本当はどうして欲しかったのか、自然と分かってきたりする。

あとは、自分がそれを認知して受け止めるだけだ。



「とりあえずやっといで。どうなっても家に帰ったらおるから」


不安で不安で迎えた指導の日。無慈悲にも思えた新郎の言葉は、「失敗しても大丈夫」と後から言われたのだと分かるのに時間はかからなかった。


指導は、相手の人生に関わる。これまでとは訳が違う。失敗するのが、怖くて怖くて仕方なかったけれど、失敗しても良いんだと初めて思えた。




初めての成功体験が自分の中で生まれると、それは大きな進歩となった。緊張はあるが、それは必要な事と思いながら今も仕事に一生けん命になりたいと思う。


最近は、「大丈夫」「そっかあ」「そうしたかったのか」と、受容が自分にもできる様になってきた。一緒に、今は指導しながら、されている気分である。一緒に成長出来たら良いなと思っている。


そして何より、同じような感覚を感じられる時がある。「ああ、今葛藤してるんだな」「悩むよなあ」「自信ないよなあ、わかる」みたいな理解が出来ると少し余裕が生まれてきた。毎回正解ではないけど、自分のことを自分が受容できた事で、相手も本当の意味で受容できるきっかけになった気がする。


客観的に見れる材料が増えたから、無駄にモヤモヤしたりせず、もやもやしても原因や「今こうだった」と伝えられる機会が増えた。それは、友達に教えてもらったから出来た事だ。


まだ自分が思っていたこと、本当に伝えたかった事を言いたい人に伝えるにはタイミングが分からないけど、書いては破り捨てた紙をいつかは見せようと思っているし、先に自分が死んで、それを見せれたらなあとか思ったが流石にやめる事にした。


ただ、もしこれを読んでくれた人がいれば、


「あなたはあなたのままで大丈夫」 と伝えたいと思う。


そのままのあなたで、一度お会いしてみたい。

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