小話。音楽と労働と家。

これは退職前ではあるが、仕事とは関係ない小話である。




私は働きながら、本番前に地元の恩師の元へレッスンに行ったり、発表会に出たり本番に挑戦していた。

月1はほぼ当たり前で、酷い時は月に続いて本番があったが、世渡りも演奏も優秀な友人がいたので伴奏をさせて貰う事が多かった。今だって本当に助かっている。


合唱の定演で半分と言えど本2冊は弾いたし、何で出来ていたのか今では分からない。気合い。



働いて3年目の新郎と付き合ってまだ3・4か月目に、恩師からピアノ教室を一時たたむ話を聞いた。最後の発表会に出演することになったのだ。


社会人になってようやく先生とまともに話す事が出来た。

最後は4人で2台ピアノをやったが、楽しかった。先生はとても疲れて見えた。



教室をたたむ話を聞いた時は、驚きを隠せなかった。でも恩師は静かに話しを終えると、退職する話をした私にこう言った。


「いまのあなたは舞台にすがっている様に見える。そんな焦らんでも舞台は逃げない。」



すがっていると言うのはその通りだった。舞台から離れたくない一心でなんでもかんでも引き受けた。酷いのはほぼ1週間でモーツァルトのミサ序曲ともう一つ大きな曲をアマチュアの大して練習もせずにボロボロに弾いた演奏のための伴奏を必死で練習した事だった。賞は取ったらしい。

合唱の人から「ピアノがいないと成立しなかった」と言ってもらえた事が何より救いであった。


それだけじゃない。必要とされない不安は学生の時にもあって、伴奏を断る事を知らなかった。大事な卒業試験でも3人引き受けたし、流石にブチ切れたが2週間前に卒試の伴奏譜を貰った事もあった。引き受けたからには出来るだけやった。

働いてからも、コンクール前に熱をもって壊れそうな手を無理に動かして本番ギリまで合わせに付き合った事もあった。無理は承知だったが引き受けた手前、妥協したくなかった。


救いなのは、私の親友と呼びたい友人たちには一人もそんな人がいなかった事だろうか。


これから社会人になって芸術で活動する人達があれば参考になればと思うが(音楽も美術も、絵も関係なく)、芸術をかじりたがったり芸術を自分自身が真剣にやってこなかった人達ほど雑に扱ってくるし、何より作品が仕上がるまでの工程を彼ら彼女らは知らない。勉強と芸術をイコールとして見てくれない。ボランティアで良いと言ってくるのが至極普通であるし、一度乗ってしまうと同じ扱いで落ち着かれる。

いやあんたがいうんかいと言われそうではあるが、自分が勉強してきたものは量はともかく卒業したのであれば価値がある。決して自分を相手に低く見せてはいけない。芸術の苦労を知らない人に係るのであればなお。


無理なものは無理で良い。先生から言われる前にも、友達が言ってくれた事だった。なんでもかんでもやらなければいけない訳はない。逆に友達には迷惑をかけている時だってあったと思う。



恩師は、「舞台は逃げないから大丈夫。時間をかければ良い。落ち着いて。焦らなくて良いから」と言ってくれた。


この言葉は今でも助けられている。


むしろこの言葉がなければ、私は今も舞台にすがりついていただろう。良く弾けるはずもなかった。



もう一つは、退職してから流石に無職はキツいと思ったので、好きな伴奏で仕事を探してみると、以前友人の伴奏をしたオーディションが再び演者を募集していた。


何となく、本能的に「これはしたい」とやけに素直にヤル気が出た。見つけたのは2月も終わる頃。試験は何と自分の誕生日、3月7日であった。


以前は講習会、その前は勉強会と重なった誕生日であったが、自分がここまでふっとやりたいと思ったのは久しくなかった。履歴書を書くと書類が通った知らせが来たので、誕生日に無事オーディションとなった。3週間弱、試験曲と奮闘である。

ここでありがたいなと思ったのは、大勢の前でしゃべってきた経験であった。面接では堂々と話せた。


実技は、初見をアホほどやってきたからか、最近初心に帰って古典をやれと恩師たちに言われて続けていたバッハがかなり役に立った。初見は弾いた事がある曲を組み替えて作った、とてもきれいな曲だった。普通に楽しかった。

指揮合わせはどれだけ勝手に振られてよい良いに動画で練習したのに真逆にしっかり合わせて振ってこられて困惑した。これは失敗した。

歌あわせは経験上一番積んだものだろうか。普通に楽しかった。


さて面接であったが、正直練習に必死で楽曲分析までは充分に出来ていなかった。だが、それを隠していてもしょうがない。正直に「ちゃんと勉強できませんでした」と伝えた後に、「ですが、私が通った暁には生徒の勉強に添える様に自分も共に学んでいきたいと思います」と言った気がする。


後輩指導で魔法の靴の呪いが掛かった状態異常であったが、ありがたい事に20名程いた中の数名に入り、合格通知を貰ったのであった。

これで少ないが伴奏が3つ掛け持ちでお小遣い程度は稼ぐ事となった。とは言え、退職した4月からは非常事態宣言が出てロクに外もいけず仕事もなくなった。


だが、私には1つ決めている事があった。


この1年は、自分のしたい様にすると決めていたのだ。故に、貯めた貯金もこの額までは使ってよいと決めた。社会人の特権である。



それからは実家でのんびり過ごしていた。


最初は休みが続く幸せをかみしめていた。実質体調が大体戻るのには半年かかったと思うが、時期に不安が募っていくのもそう時間はかからなかった。近所の声が悪い様に聞こえる。しんどくなっていった。



みんなが働く間、私は働けるのに何もしていなかった。



いや、厳密にいえば家事と練習はしていたし、資格のレポートも出していた。伴奏でオンラインだが週一ずつあったし、合唱伴奏が続いていた。


ハロワに通いだした時点で、「求職者」になった事で、無職同然だった。いや、そうだった。そして、その「仕事していない」という謎の重圧から逃げようと「伴奏してお金を貰っている=仕事」とみなす様にしても、他人からすればそれが仕事とはいわれなかった。求職者は無職で、依頼やバイトの様な扱いで契約していても、家族にとっては「無職」に変わりなかった。徐々にそれがしんどくなっていった。


やる事を探そうと少しずつ辞めていた絵を描いたり、日記は退職と共に一旦区切りをつけ、新たに結婚までを記す事にした。


とはいうが、実家にいるのは探せばやる事は山ほどあった。というより、自分のやる事が減る事はなかった。やりたい事も減る事はなかった。

実家にいると、自分の事をやる前にやらなければならない事も沢山あったし、優先事項でないといけなかった。


緊急事態宣言が発動し、外に出る仕事が家になっても、「仕事」をしている安心感は得られた。自分はただ、無職と言われる事が何もしていない風に受け取れてしまって嫌だった。

「あんた無職やんか」と言われても、課題は沢山あって追われていたし、オンラインで給料も入った。無性に「無職」と言われるのがいらだって情けなかったが、すぐに常勤に戻るのも、前職に帰るつもりもなかった。自由にするつもりだった。今まで我慢してきた事をやると決めたのだから。


親は、毎日家事・洗濯をする私に時給でおおよそを計算して小遣い変わりにくれた。ありがたいとは思った。でも、どこか違和感があった。


その違和感も、友人との話に助けられた。

家にいるのがだんだん嫌になってきた時、それが自分が「嫌」だと思って良いのか分からなかった。世の中の人は怪訝な顔をせずに丁寧に家事をこなす人もいるのかもしれない。仕事をして帰ってきた人にはもっと話を聞いたり、サポートしないといけない。ここに住んでいる以上、私の意見はこの家からして間違っているのかもしれない。とにかく自分が正しいなんて考えは塵ともなかった。私がした家事が母の文句を生んでいた。彼女の様には出来ない。しようと思っていなかったのかもしれない。


「別に、自分が嫌だと感じたら、それは嫌やったって事やろ」

と言われた言葉が印象に残っている。


幼稚かもしれないが、「自分が嫌って感じて良いんだ。ダメな事じゃないんだ」と思った。自分が嫌と感じても、それは他者にとってそうではないのかもしれない、とずっと思っていた。そこに自分はいなかった。

それはおそらく、自分がどう思っても素直に出して来なかったツケが行きついた先なのだと思う。



そうこうしている内に、伴奏の仕事で外に出る事になり、夏頃には自宅で生徒を1人、持つことになった。


ここから徐々に変わっていくのである。

そしてある日、「いやあなた個人事業主やん。フリーランス。」と言う言葉がストンと落ちて、


多分、一番この時期に助けられたというか、目からうろこというか、この言葉は自分の中の何かを変えるきっかけになった事は事実だった。



恥ずかしながらあんまり意味をはっきり知らなかった故にフリーランスを調べたが、なるほど頻度こそが少ないが、一応はお給料も貰ったりしている。仕事も選べる。自分で予定を入れる事もある。

視界が晴れた気がしたと同時に、「無職やん」と言われた言葉がどうにもまだ引っかかって、親にフリーランスなのではと言ってみたものだったが、彼女はあまりフリーターとフリーランスを知らないと言った。パートと常勤で勤め上げてきた人だ。軽く説明しようとしたが、「ふうん」で終わっていた。おそらく彼女の中でも仕事はよく外に出るものだった。

週一は誰よりも帰るのが遅かった。週一は母が願っていた先生を自宅でした。別にそれを誇らしく思う事もなかったけど、前よりはいくつか気持ちがマシだったし、前向きになれた。


というか週一と言う割に課題が多すぎてあっぷあっぷしていたのか、「一応私も完全に仕事がない訳ではない」と繰り返し言ってしまったのを不憫に思って気を遣ったのか、「仕事やもんね」とかいう少し逆に引っかかる言い方を彼女はする様になった。言わしてんな。これは。


そんな中一応は求職者なので就職活動もしており、2次の面接までいったが、来ては欲しいが曜日が合致しない為に保留になった。みんな土曜日欲しいよね・・・ごめんって感じだった。

もう一つ救われた事として、コロナの緊急措置で求職期間が延長になった事と、給付金も延びたのは本当に助かったと思っている。御国ありがとう。



そんなこんなでまあまあ生きながらえていると最初に引っ越ししようとしていた秋に辿り着く。まあいけないよな・・と思ったのも母の調子が今すこぶる良かったのと、今抜けると一気に全部を彼女に背負わせる事になりそうだった事と、話を聞く限りまだ仕事が定着していないと感じたからだ。せめて半年たってもう一度様子を見ようとしたが、ぼちぼち自分の負担を減らす事には決めた。これから結婚する身として、いつまでも自分だけやっても仕様がないし、他の飯を食べる大人にも分担して貰わねばなるまい。てか手伝って欲しい。


それからは練習以外の自分自身の事にもう少し時間をかける事にした。仕事のない日を割り振って、花嫁修業でもしようかと時々先に新居に引っ越した新郎にご飯を持っていく事にした。確か、その辺りだったと思う。


何もない日に毎日私がしていたのは大人5人と子供1人の買い物・ご飯・洗濯・たまに掃除・1日母と出歩く日と、時々1日姪といたり、お迎えに行っていること。

多分ご飯も、好き嫌いが多い兄弟やあまり冒険しない母、好き嫌いが同じく多い姪を考慮して作っていただろう。ルーティンは変わらず出来上がっていた。だが、母の理想の状態に届くはずもないし期待もしないものの、彼女にとっては慣れない仕事に疲れても帰ったら洗濯も取り込まれていてご飯があるという状態に余裕が持てたのだろう。珍しく体重も増え、顔色も良く見えたのだった。彼女は祝日・土日の担当だった。


新郎は基本なんでも食べる為、作り甲斐があった。私は器用ではないので凝ったものは作れないが、栄養が偏らない様には最低限出来る。置きメモをしてUtubor Eatsたるものを作っておくと、食べっぷりも良いので次行くと綺麗になくなっているか、それが炊事場に置いてある。

母が入院した時に兄弟や父が自分の作った料理を残す事がたびたびあった自分にとっては、残されて総菜を嬉しそうに食べられるよりもどっちも食べている新郎を見たり綺麗な皿を見る方が楽しかった。土・日は新郎の済む新居に定期的に行く事にした。それが月曜の朝まで伸びて、月曜だけ弁当を作った。

新居が楽しいと思うほど、実家が楽しくなくなった。規制が多い様に感じた。服を買ってもいちいち何か言われるだろうと思うのも嫌だった。



実家と新居通いが続いて数か月。


ご飯を2重に作る意味が分からなくなってきた私は、自分の手荒れに気づいた。

母は肌が弱い。故になるべく早めに晩御飯を済ませて、彼女が食べ終わった食器を洗う様にはしていた。

姪が風呂に入る前は義姉がお風呂の準備をするのにお皿を変わりに洗うのは時々であったが、仕事をして疲れた常勤たちの変わりに自分が動かねばとは思っていた。お疲れ様の意味を込めて。


土日になれば新郎が平日は作ってくれているからとご飯をつくってくれた。二人で買い物して、休めと言われた。が、せめて掃除はした気がする。新郎がよく昼寝したり寝っ転がる人だから、月に2,3度あったか分からない寝っ転がりを、新居でよくする様になった。

実家に帰ると、母から前に貰った家事分のお小遣いに気が付いた。さしずめこれは給料だ。給料があるから、私は給料分の仕事をしなければいけない。これは契約だ。雇用主の指示に従うのも、当然か。


長居する様になった新居は、自分がしたくて家事をしつつある。今はまだ。かもしれないけれど。


なら、いらない。



その数日後、母から「今月分」と言って渡された封筒を、「もういらない。ありがとう」と受け取るのを辞めた。

母が自分で稼いだお金を私に挙げることで自分のやりがいにしているのも知っていた。でもそれはあくまで彼女だけの考えだ。私は助かるが望んだ事じゃない。痛手はあるが、これで、雇用主の思う家事から開放されたのだった。


そうなると、ご飯も自分で判断して考えて作る事が出来る。今日はこれでいいんじゃない、食べなかったらこれがあるし。嫌なら食べなかったらいいじゃん(本人には言わなかったが)と、母がどうしようと言った時にも普通に言う様になったし、気を抜いてご飯を作る様になった。

それと同時期か少し後に、年末が来るまでに、年始には家を出る事を告げた。


私がいたら、みんな動かない、とうっすら思っている自分がいたからだった。


早めに伝えたのはあくまで実家にいる回数をこれから徐々に減らし、私がいない時でも母自身が人に頼りながら家事を回す環境を作って貰うためだった。一番は父に動いて欲しかったし、ここまで期間を延ばしたのはKYで自分一番で甘い父が母に寄り添ってくれるのか心配でならなかったからだ。

精神は退職前より大分と安定していたからか、色んな人のおかげで自分の意見を自分が聴ける様になった私は、「この家の平日の家事や雑用に関しては自分が受け持っている」と多少理解していた。今までの家事は母を中心に全てが回っていたのだ。


母は、数日後、兄や父にそれを話したらしい。兄の口だけ部分はたまに聞いていたが、どうやら今回は父も加え以前より母をサポートする様になっている様子が見られた。私が籍を入れて引っ越しして久々に実家に帰った日には、兄が晩御飯を作ったり、父が母に文句言われながら手伝っていた。

その分義姉の変わりに姪を見る事が減ったものの姪も成長しているので見切りが早くなって一人遊びなとしている。


案外、心配しなくても良かったかもしれない。母に負担はあるが・・と思いながら、自分は気にせず練習はみんなが帰ってくる前に切り上げ、洗濯は時間があれば入れて新居に帰る他は、時々土産を持って遊びにいく様にはしている現状である。

今は週一か会う時に必要な食材を好意に甘えて買って貰うのが互いに良いかなと思っている。実際めっちゃ家計にやさしい。


そんなこんなで仕事や家やで色々あったが、自分のやりたかった事を時間がある時にやるべく採譜したり絵を描いたり、noteしてみたり小説打ったりしてるが学生の様である。就活も一応は。

資格勉強にその熱意が向く様にはもう少し本を読む時間を作って頑張らないといえないのが今の課題である。



振り返っても、恩師と友達たちには一生感謝したい。いくら払おうか・・・











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?