進学直後に休学した東大院生の話

初めまして、甘蕉と申します。

今回は、自己紹介も兼ねて、休学理由等について簡単にお話ししようと思います。
なんだか少し恥ずかしいですが、まあ参考になる人もいればいいなあくらいの気持ちで書くので、どうぞお付き合いいただければと思います。


自己紹介

私は東大情報系の修士一年です。
研究室への配属後に即休学届を出し、現在一年間休学しています。

休学理由

一言で言えば生きるのが下手で、自分のことが良く分からなくなってしまったためです。

東大に入るために受験勉強して、地方から上京して、都会に順応しようと頑張っているうちにコロナが蔓延して、緊急事態宣言で人と会う時間が格段に減って、新しい生活スタイルに適応しようとしているとすぐ進学振り分けの時期になって、専門課程が始まって、定期試験がたくさんあって、すぐ研究室配属があって、院試があって、卒論があって…

私なりに何とかやってきたつもりですが、いま思えば、細かいところまで考えてしまう癖や歪みまくった認知も相まって、今まで自分のことを考える機会が全くなかったなと。
自分の価値観や気質を振り返ることせず、自分にプレッシャーをかけ続けていた結果、進学振り分け後から少しづつひずみが生じてきました。

例えば、自分というものが分からないので、他人との比較でしか自分の価値を確認できません。
当然周囲には自分より秀でたものがある人はたくさんいるわけで、いちいち勝手に彼ら彼女らと比較してしまうので、「自分には価値がない」と常に落ち込んでいました。
また、不安感が脳のリソースを圧迫しているので生産性が落ち、それでさらに他人と比べて落ち込み、それでさらに生産性が落ち…という負のループにも陥っていました。
卒論を進めないといけない時期になると次第に動けなくなりました。基本的には2~3日寝込んで、1日頑張って起きて卒論を進める、といった具合でした。
(この時期のtweetを見返してみると、病んでることばかり言っていますね、お恥ずかしい…)


生きづらい自覚はあるのに、自分の気質を把握できていない。自分の価値観が分からない。何をしたいのかが分からない。自分自身をコントロールできない。なぜうまく進まないのかが分からない。そこにまで頭が回らない。どうすればよいのか分からない…。



私は卒論を提出した後すぐに、休学する決断をしました。

大学院に入るとノンストップで物事が進むと思われるので、このタイミングで一度立ち止まって、自分自身を見つめなおし、振り返る時間を取りたかったわけです。

休学後

大学院入学直前の3月に、新しく配属される研究室の教授と面談して休学の由を伝え、事務室に休学届を提出しました。
それからすぐに心療内科で薬物療法とカウンセリング(認知行動療法)を受け始め、ある程度症状が落ち着いてからは、旅行して自然と触れ合ったり、心理学や哲学の本を読み漁りつつ自分の内面を深く掘り下げたりといった感じで過ごしていました。

すると、少しづつですが自分の価値観や気質が分かり、何か心の核や自分の軸といったもののありかも見えてきました。例えば、自分には周囲の環境からの刺激を受けやすいという気質があり、表面的な部分よりも、内面的な部分を重視したいという価値観があるみたいです。また、そういった価値観や気質をどのように自分の生き方に活かせばよいかということもつかめてきた気がします。

特に、研究や学問とはしばらく距離を置いていましたが、やはり自分は学ぶことや深く考えることが好きなんだなといったことも再認識できました。症状が強く出ていた時期は、自分はここにいていいのか、と悩むこともありましたが、自分の生き方に自信を持てるようになりました。

波はありますが、ちょっとづつ改善している気がします。教授との面談を通して、熱意をもって取り組んでみたい分野も見つかり、休止していた研究バイトも再開しました。ですが、正直まだ復学したいとは思いません。復学するかどうかも分かりません。とにかく今は、もう少し自分のことを掘り下げたり、あちこち旅行したり、自分のしたい勉強をしたりしつつ、普段できない何か新しいことをしてみたいです。

思い付きではありますが、noteもそのうちの一つです。
自分のことを書き連ねて整理する意図もありますが、同じような悩みを抱えている方の参考になればいいなと思っています。
私自身も、休学しようか考えていた時に「大学院 休学」や「東大 休学」と検索して、先人方の考えを参考にさせていただいていたので。
(twitter等snsは精神衛生上よろしくないので、こんな感じで不定期でnoteの方にお気持ち表明できたらと思います)

正直これからどうなるのか私自身にも分かりませんが、まあ気ままにやっていければと思います。

おわりに

休学前は、みんな同じ数直線の上に位置しており、できるだけ値の大きい方向に進もうと競っている感覚でした。今は、みんな同じ平原上を各々のペースで進んでいるイメージでいます。

そこでは各々が自身の目的地を持ち、現在地から目的地に向かって歩みを進めています。
経由地が同じことはあっても、目的地まで同じ人はほとんどいません。周囲の人が先に各々の目的地に近づいていても、厳密には比較のしようがないので、「あんなに進んですごいな、私も自分の目的地に頑張って進むぞ」という程度の認識にとどめておくのがよいのかもしれないです。
それでも、周りの人は各自の目的地にどんどん歩みを進めているのに自分は全く進めず、焦るときもあると思います。
しかし、他人と比較することはある意味、そういった各人の歩みの軌跡を抽象化する作業で、各々の目的地への歩みの一側面しか取り出せていません。
のんびり寄り道しながらハイキングするのが好きな人もいれば、道なき道を走るのが好きな人もいます。
それは彼ら彼女らの趣味嗜好の問題であり、道のりやペースに優劣はありません。
自分の歩んできた軌跡や進むべき方向に自信を持ち、
「私は自分の信じる道を行くぞ」くらいの気概でいた方がよいのでしょうか。

結局、周りがどうだとかというのは参考程度にとどめ、前に踏み出すこと大事なのでしょうか。
先が見えなくて、進む方向が分からなくて不安でも、立ち止まればそこで停滞してしまいます。
躓いて死ぬことはめったにありません。遭難しても助けてくれる人はいるはずです。
進んでさえいれば少なくともどこかにかはたどり着くので、ゆっくりでも着実に、自分のペースで進むことが大事なのでしょうか。


どこかで聞いたことのあるような臭いポエムになってしまいました。
きれいごとかもしれませんが、自分に言い聞かせるつもりで書きました。
どうなのでしょうか。答えはまだ出ません。出ないのかもしれません。


今後は気が向いたら、休学に至るまでの経緯や、休学後の過ごし方、自分と向き合うために行ったこと、私が学んだ不調の予防法や改善法などをより詳細にまとめてみるつもりです。


それではご覧いただきありがとうございました。


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