【対談】 負けヒロイン研究会×純愛同好会
まえがき
コミックマーケット101で本サークルは、初の同人誌『pluː vol.01』(読み: プルー)を頒布いたします。それに合わせて、同じくC101にて同人誌『Blue Lose』の第二号を頒布する「早稲田大学負けヒロイン研究会」との対談を10月に行いました。
対談は「負けヒロイン研究会」主宰 舞風つむじさん(@maikaze_tumuzi)と「東大純愛同好会」会長あああ(@iamsomepen)、副会長ふとん(@always_in_often)がお互いに10個づつ質問を投げかける形で進行しました。本記事は、つむじさんが聞き手となってあああとふとんが回答した部分を編集しまとめたものとなっています。
一方「早稲田大学負けヒロイン研究会」のnoteでは、あああとふとんが聞き手となり、つむじさんに回答していただいた記事が上がっているので、そちらもぜひご覧ください。リンクは最後にも掲載しております。
対談 (負けヒロイン→純愛同好会)
Q1 会を始めた理由
つむじ : とりあえずそもそも会を始めた理由みたいなのを聞きたいです。
あああ : 会を始めた理由は、それこそ勢いというか。経緯としては、ふとんさんと僕を含めた食事会があって、その時にサークルなんかやりたいねみたいな感じで話していて。そこでちょっとインパクトある名前がいいよなと案を出し合って、たまたま出たのが「純愛」で。あまりにも衝撃的だったけど、だからこそそれでやってみようと勢いで決めちゃったのがきっかけでした。だから本当に申し訳ないことに、純愛という言葉に最初は意味がなかった。
つむじ:うんうん。
あああ:ただ一つ思うのは、冷笑側っていうか、熱くならない側みたいなのが主流の時代で、自分もどちらかといえばその側なんですけど、1個真逆っぽい概念を立ててそれで考えていくっていうのは、意味があるような気がした。そもそも冷笑に突っ走る人って、すごい逆にロマンを抱えてるんじゃないかなと、自分の事を考えたときに思って。そこで荒療治だけど、純愛って言葉を使ったらどうなるんだって感じですかね。
つむじ : 王道のものをやっていこうみたいな。
あああ : はい。あとそれですごいいろいろ苦労したので、何かこの決め方は本当にちょっと強引だったかなと思いました。
Q2『ラブライブ!シリーズ』について
つむじ : それ、あんま関連はしてないと思うんですけど。さっきちょっと話した『ラブライブ!』って割とあれ王道で、ちゃんとしてるみたいなイメージがあって。結構『ニジガク』好きなんですか。
あああ:僕は…あんま好きじゃない(笑)
ふとん:僕の関心ですかね。
つむじ:そこちょっと関連してるのかなっていうのは聞きたくて。僕も『ラブライブ!』すごい好きだったんで。まあ好きだったというか今も好きなんですけど。だから何か関連があったら面白いなっていう。
ふとん:直接的には多分関連してないですね。
つむじ:ええ、ええ。
ふとん:ただ、『ラブライブ!』の価値観には、夢みたいなものがあって、それを実現しようっていう、そういうロジックでみんな動いている。それはさっきの話でいくと冷笑の態度とは異なって、希望を持って突き進んでいくタイプって意味では同じ位置づけにいて、そういう意味では関係するんだろうなって思っています。でも直接的には関係ない、好きですけど。
つむじ:一番好きなのは『ニジガク』?
ふとん:そうですね。『無印』から見てたんですけど『サンシャイン』はあんまりハマらなくて、『ニジガク』これええやんって。
つむじ:ああ、僕の周りにも『ニジガク』で帰ってくる人がいっぱいいました。
ふとん:アニメとしては別にそんなに良くないと思うんですけど、結局キャラクターが魅力的だから。
つむじ:ああなるほど。二期なんか人が増えすぎてちょっと雑になった感じがありましたよね。
ふとん:1期の13話や2期の13話を見てると、アニメとして一つ一つのキャラクターを大事にするかわりに躍動感が失われてるなって思います。全員に均等に出番を与えなきゃいけないから。
あああ:僕はそれがダメだったんですよね。毎話毎話女の子変わってそれっぽい話が展開されて、繋がりをあんま感じなくて乗り切れなかった。
ふとん:そこは大事なテーマ。アニメとしては。
つむじ:『ニジガク』はそこが大事みたいなとこありますよね。ラブライブ出ない代わりに、各キャラ掘り下げていこうっていうか。個人の問題に向き合うみたいな感じではやっぱあったのかな。
Q3 純愛とは何か?
つむじ:次の質問としては。純愛っていう定義の話になるんですけど。ヘテロ的な恋愛に収まるのか収まらないのかというのはちょっと聞きたくて。例えば百合とかBLって純愛に入りますかって、すごく興味あります。
あああ:僕は今は純愛って言葉を大胆に解釈してて。もう必ずしも恋愛とかには結びつけずに、理想だったり今より良い方向に向かっていく力みたいなところで捉えていて。
つむじ:なるほど。
あああ:なんかYouTubeでたまたま見つけた人生相談の動画で、私は今いろんなセフレの人と関係をもっていて、でもそんな生活が嫌で、1人誰かと純愛がしたいですみたいな相談があって。そこでの純愛というのは、何か具体的な、理想の恋愛の在り方を指しているというよりは、多分今のこのちょっと多分汚れた状態みたいなのから抜け出す言葉として使っていると思うんですよね。だからどっちかっていうと純愛って…
つむじ:もう何か人以外の対象でもいいから、それに向けて愛するみたいな。
あああ:純粋に求める気持ち…みたいなものを純愛と呼びたいなと、僕は考えています。
ふとん:会の序盤のころに男女の恋愛のみに限るのかみたいなことを議論しようとしたときがあったんですけど、結論から言うとあんまり成果がなかった。そもそも純愛って言葉がいろんな意味で用いられているし、それを収集してどうこうやるのは難しいしやる価値があるのかなという話になって。さっきの話と繋がるんですけど、結局抽象的な希望でしかなくて、実像を捉える必要がない。例えば無償の愛という言葉がキーワードとして上がったけれど、結局それはどうでもいいんじゃないかなと僕は思う。
つむじ:うん。
ふとん:例えば『CARNIVAL』ってゲームとか。ツイッターのアイコンになってるやつです(座談会当時)。このゲームのラストは、ヒロインが主人公にいかに希望を託していくかってことが描かれるんですけど。僕が昔それをプレイしたときにこの関係は健全な、いわゆる普通の恋愛関係ではないのかもしれないけどなんかすごくいいものだなって思ったことがあって。僕は純愛って言葉を聞いたときにも、『CARNIVAL』を思い出したりしていました。
つむじ:なるほど。それって一方的なものなのか双方的なものなのかってあります?
あああ:それは僕の考えだと、一方的なのかもしれない。個人の意思の話に持っていきたいから。
つむじ:なるほど。この話を伺った理由って、それこそ「萌え」とか「推し」みたいな話に繋がってくるはずで、一方的なものであるならそういう概念も全部ある意味純愛の中に含むことができるんだろうなと。
ふとん:確かに。本田透って批評家がいるんですけど。その人は、『萌える男』っていう本の中で、「萌え」って言葉と「純愛」って言葉をほぼ同列に使っていて。
つむじ:あ、そうなんですか。
ふとん:「純愛」って言葉を定義することまではしてないですけど。
つむじ:なるほど。純愛はわりかし一方的でも双方向的でもどっちでもいいっていうか、自分の中でそれが純愛だと思えば純愛なのかなって感じですか。
あああ:そうそう。
ふとん:半年前から進展してない(5月に本サークルで行った「純愛バトル」を指してのこと)。
あああ:結局純愛が希望っていうのは、純愛っていうのを具体的に見ていくと、結局個人の趣向の部分に入っていってしまって。つまりは、各々の希望を満たせるのはどんな純愛か?って話になってきて、それは他人が口出すことでもないので、話としては終わってしまう。それでも、共通項として語れるのは、現状から何か理想というか希望みたいなものに向かっていくところがあるんじゃないかって。
Q4 純愛からどこへ向かうのか?
つむじ:それについて聞きたいのが、今の話だと純愛ってそれぞれの中にある私的なものみたいな感じだと思うんですけど、そこからどこへ向かうんですか。例えば青春ヘラでは各々の私的なヘラっぽい経験を青春ヘラって名前でまとめあげてる、逆に負けヒロインってのはその普遍的なというか、誰が見ても負けヒロインってものから私的な経験になっていくっていう指向性があると思っていて。純愛ってそしたらどういう指向性になるのかなっていう。
あああ:むしろそういうものが見えてない人に気づかせる…って言い方ちょっとあんま良くないけど、冷笑だったりニヒリズムに走っている人にも、本当はでも何かあるんじゃないみたいなことをちょっと言いたい。否定から生まれている何か。
ふとん:冷笑とかニヒリズムって例えば、現実の女の子は俺には無理だから糞だみたいなそういうのも含んでるのか、もっと広い概念なのか。
あああ:それも含むしもっと広く。だからもう諦めじゃないけど、俺はもうこれでいいんだみたいな。言ってるけど一方で抑圧されてる何かみたいな。
つむじ:つまりはどっちって言えばいいんだ。何か君の中にも私的な純愛がどこかにあるよねみたいなことをみんなでやっていこうみたいな感じですかね。
あああ:そうですね。
つむじ:あと向いてる矢印で言うと青春ヘラと逆ってことですよね。あれはわりと諦念みたいな話をしてるはず。諦めをする前に何かお前の中にも希望はあるんだみたいな感じですかね。
あああ:もっとしっかり傷ついた方がいいんじゃないか。映画『ドライブ・マイ・カー』を見た影響もあるんですが。初めからやっぱり今の時代ってネットとかがあって、やっぱ常に自分をメタ視させられてるというか、ここで告白するのはダサイとか、そういう馬鹿になれないみたいな要素が結構あるから。すぐに晒されちゃうし告白とかして。
つむじ:それは冷笑の一つの原因になってる気がします。
あああ:そこでもう初めから抑圧されている傾向があって、それが当たり前になっている。だけど、一方でやっぱりエネルギーみたいなものは消えないわけで、それが良からぬ方へいってしまうこともありうる。それならまず何か希望みたいなものに、そこで倒れるかもしれないけど、1回目を向けてみた方がいいんじゃないかなって考えていて。
つむじ:すごい雑な切り分けになりますけどやっぱ『ラブライブ!』結構近いですね。
あああ:(笑)まあ、あそこまで競争しなくてもいいけど。
つむじ:競争とかではないけども。それこそサンシャインって実はそういう話なんですよ。あれって雑に言うと廃校から救うみたい話なんですけど途中で廃校決まるんですよ。だから廃校が決まったらもう何でもいいからとりあえずラブライブ優勝するぞみたいに一気にシフトしていって。挫折から一気に行くみたいな話だとちょっと近いかなって。僕の中では何かそれは一つの純愛なのかなって雰囲気を感じます。
あああ:それは多分僕の個人的なテーマで、どうしたら終わってる状態から遠くにいけるかみたいな。克服はできなくても、足掻くというのは好きですね。
Q5 NTRは純愛か?
つむじ:そうなると、世の中には 寝取られは純愛だって言ってる人が一定数いると思うんですけど。そこについてもちょっと聞きたい。寝取られは純愛だって言ってる人たちに対して一言っていうか。寝取られって純愛ですかね。
あああ:僕の立場から言うとは違うかもしれませんね。寝取られってそれこそ結構ニヒリズムの境地というか、もう痛みを、何も信じられないところを痛みでこう…というか。もう自ら希望を潰えさせるように動いてるから。いやそれが好きなのは別にいいと思うけど、それを純愛っていう意図は何なんだろうって思うかな。
つむじ:すごい僕の雑な理解になりますけど、寝取られが純愛って言ってる人は、多分自分が好きな女の子は自分とは釣り合わないから、彼女に釣り合うようなかっこいい男といた方がいいし、それはつらいけどそれを良いと思えることが純愛なんだとか多分そういうロジックで動いてるんだろうなって。確かにその論理で行くと確かに純愛であるのかもしれないっていう。ここで言ってるのは狭義の恋愛って意味での純愛ですけど。
あああ:確かに。でも、それは逆に逃げているというか、自分の価値をもう決めちゃっていて。それこそすごい諦念ですよ。自分はこんなんで、付き合っても絶対幸せにならないでしょうみたいな。そこででもいい人であろうとすることで自分を何とか満足させようみたいなすごい引きを感じるので。確かにそういう相手に尽くすとかそういう、相手がよければいいみたいなそういうのを文字通り受け取るならそうだけど、でも本当にそうかな。
つむじ:なんか自分の可能性みたいなそういう話になるのかな。自分の可能性をもっと信じていこうみたいな、ちょっと啓蒙的な言い方になっちゃいますけど。
あああ:可能性を信じるというよりも、あんまり無理に最初から嘘ついて誤魔化すのはやめた方がいいのではと思って。とはいえ一方で、もう正直それは悲しいことに、全員に可能性があるとは限らないし、全員が自分の望みに対する能力を持ってるとは限らない。そこで、諦めるなよとか言いたいわけじゃなくて、それでも一度はしっかり自分と向き合った方がいいんじゃないか、傷ついてでも、っていう考え方。
つむじ:あー、自分にしっかり向き合った方がいいっていう。
あああ:そっちに近いです。ワンチャン叶うかもとかそれはすごい無責任な話だから。そうじゃなくて、それこそ比企谷八幡みたいに告白しまくって、やることでどっか回避している。回避しているというか、ひどいところまでいかないような。必ずしも告白しようとかそういう話を言いたいわけじゃないんですけど。
つむじ:告白できないって諦めるのはとりあえず良くない。
あああ:うん。ただ当然、向き合った結果ニヒリズムに陥っちゃったみたいな人も多いとは思うんだけど。
Q6『俺ガイル』の「本物」は純愛的か?
つむじ:今ちょうど話題に上がったので、『俺ガイル』の話を聞こうかなって思って。この作品で「本物」っていうのは要は、分かってほしいとかじゃなくて、分かっていたい関係みたいな。他人のことを知りたいっていうのが「本物」みたいな話を確か比企谷八幡はしていたはずで、それは純愛に入るのかなっていうのが聞きたい。
あああ:分かっていたい関係。
つむじ:そうです。他人のことをわかりたいって、その人のことがわかっていたいっていう指向性はわりと「本物」と純愛ってある程度パラフレーズできるのかなって思いつつ。ただそれが全てなのか、それとも部分的には純愛とかその純愛の一部として、八幡の言う「本物」みたいなものが定義されるのか。
あああ:そうですね、なんだろう。僕の言う純愛だともう本当に、定義するとかじゃなくて、無限に事象が含まれてるみたいな感じになると思うんですけど。比企谷八幡の言ってることが、あれってやっぱ人のことを知りたいっていう…ていうのはやっぱ何なんだろう。自意識からの解放的な話になるのかな。自分じゃなくて、自分を建前とかやり方とかそういうのを超えて思春期固有の自意識みたいなのを乗り越えたコミュニケーションみたいな。
つむじ:あえて冷笑する自分をダウングレードさせていくみたいな言い方になりますけど。自意識は1回置いといても、自分の欲望みたいなものに誠実になるみたいな感じはあるのかなと思っていて。それって結構純愛に近いものかなって思うんですけど。
あああ:そうですね。僕もその「本物」っていう概念は結構近いとはちょっと思っていた。純粋を求める気持ちというか、いろいろ考えていく中で、やっぱり比企谷八幡は欺瞞とか建前とか、そういうのをすごい嫌うから。それを超えた何かみたいな関係。
ふとん:ちょっと思ったんですけど、比企谷八幡って「本物」が欲しいって言ってましたけど、結局「本物」手に入れられたんでしたっけ。
つむじ:オチについては大量の議論が交わされていると思うんですけど、僕としてはそれは「本物」じゃねえだろっていつも思ってるんですけど。
あああ:僕もそう思う。すごいつまらないところに落ち着いちゃったなっていう。
つむじ:そうですよね。何か「本物」とかじゃなくて単純にただの恋愛的な関係に落ち着いてしまったのが最後もったいなかったなっていうか惜しいなっていう感じだと思いますけど。
ふとん:作り手も相当たくさん苦労したんだなってわかるけど。妥協点としてここに帰着させたんだろうなってのもわかりつつ、ちょっと残念だなって。
あああ:ラノベ出るのもすごい時間かかりましたもんね、最後。
つむじ:そうですね。
あああ:ただ、「本物」を目指すっていうのはもう正直無理というか。それはもう常に修行僧みたいになるしかない。
つむじ:それはすごいわかります。常に追い続けていくことでしか「本物」かどうかわかんないけどとりあえずやっていくしかない。
あああ:もう悟りへの道みたいな。
つむじ:僕もすごい思ったんですけど。でもおっしゃってる純愛も似たような感じがあるかなって。結果的なものは多分あんまりないかなと思って。過程によって、その過程自体が純愛と最終的に呼べるかも知れないみたいな感じはします。
Q7 負けヒロインは純愛的か?
つむじ:ついでにちょうどラブコメの話に入ったので、聞きたいんですけど、負けヒロインって純愛的なんですか。
あああ:(笑)難しいですね。
つむじ:この会の一応テーマにもなるかなと思って。
あああ:負けヒロインか、同人誌にも書かれてましたけどそれって物語のキャラ同士の関係っていうよりも、自分とその少女の関係がどういうものかっていう話ですよね。負けヒロインを愛好するっていうのは。それは難しいな。
つむじ:あとはそもそもその負けヒロイン本人のそれが純愛かなっていうのは気になって。
あああ:あー、確かにね。
つむじ:それこそこの会元々は『WHITE ALBUM2』のお話をしようみたいな感じでお願いしましたけど、要は小木曽雪菜は純愛だったのかどうかって話がすごい気になって。そういう意味では負けヒロインが純愛なのかっていうテーマは面白いのかなと思います。
ふとん:先ほど『俺ガイル』の話が出たので言うと、負けヒロイン研究会って由比ヶ浜結衣もフィーチャーされてるじゃないですか。
つむじ:ええ。
ふとん:そこで、由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃を比べたときに、これは僕の意見ですけど、困ってるかって困ってないかっていう区分がどうしてもあって、雪ノ下雪乃は明確に困ってるじゃないですか。それでいくと由比ヶ浜結衣は、小木曽雪菜も近いところがあると思うんですけど、主人公がいなくても1人でなんとかやっていける。だけど、メインヒロイン、選ばれた側のヒロインはやっていけない側だったっていう違いがまずあって。
つむじ:なるほど。
ふとん:それでいくと僕はどうしても、由比ヶ浜結衣とか小木曽雪菜よりも雪ノ下雪乃や冬馬かずさの方に肩入れしちゃうんであれなんですけど。なんか我々の目線で負けヒロインを見るのはいいんだけど、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣それぞれの比企谷八幡への目線を比べてみたら、どうしても雪ノ下雪乃に肩入れしたくなっちゃうなっていう。
両名:ああ、なるほど。
ふとん:結局、負けヒロインに純愛があるかっていうと、まあ……ない場合が多い?
あああ:うーん。
ふとん:あと、さっきの話だとメインヒロインはなにか欠けているものがあるってことだったけど、『冴えカノ』とか見てるとまた話は変わってくる。
つむじ:『冴えカノ』は何かあれを全部逆転させてきて、本当に丸戸史明面倒くさいなって思って。
ふとん:確かに僕も、澤村・スペンサー・英梨々可哀そうすぎだろって思っちゃう。それだとさっきの話が通用しなくなっちゃう。
あああ:うんうん。
つむじ:一応あれは英梨々と詩羽で何とかみたいな感じには落ち着きましたけど、それでは救われないだろうみたいな気持ちがすごいあって。負けヒロインの一途さみたいなものを見ると、僕としてはそっちの方が純愛なんじゃないかなという気持ちになってくるっていうか。負けヒロインから主人公に向ける愛情っていうのはわりとどっちの意味でも純愛に近いんじゃないかなって。
あああ:メインのヒロインよりも自己の問題が軽い場合が多いから、主人公にしっかり感情は向いてますよね。何か抱えたヒロインって結局自分の問題がすごいデカくて、そこまで周りが見える状態になっていない印象も受ける。
つむじ:三角関係って基本的にその主人公からメインヒロインに向いてて、負けヒロインから主人公に向いてるみたいな矢印があると思ってて。
あああ:助けなきゃみたいなとこも乗っちゃって。
つむじ:そう。あああ:そういう意味ではある意味、負けヒロインから向く感情の方が純粋なのかもしれない。
ふとん:純粋って言葉使うとまたややこしくなる。
あああ:わかんないけど(笑)
ふとん:でもあれですかね、由比ヶ浜結衣を例に出すと、由比ヶ浜結衣から比企谷八幡への感情ってすごく一貫してるじゃないですか。一方で雪ノ下雪乃の感情は揺れがあって、その揺れは感情の揺れでもあるし、同時に彼女の心の揺れでもある。希望とか、冷笑からの離脱みたいな我々の考える純愛という話でいくと、その心の揺れみたいなものが大事な気がしてる。
つむじ:あーはいはいはい。
ふとん:それが多分純愛の要素になる。
つむじ:なるほどなるほど、すげえわかりやすかった。そう考えると負けヒロインに純愛はないですよ。
一同:(笑)
Q8 純愛は相対化されるか?
つむじ:次の質問が、純愛って相対化されるものなのか。
あああ:相対化するとは?
つむじ:つまりは自分の中で、希望になりうるものが二つあったとして、こっちの方が希望になりうる可能性が高くこっちが低いみたいなときに、両方純愛になるのか、片方だけが純愛になるのか。
ふとん:めちゃくちゃ面白いですね。
つむじ:一般的に、純愛って何か相対化できないもの、唯一のものみたいなイメージがあると思っていて。でもそれって複数の場合はどうするんだとか、それこそ多分『WHITE ALBUM2』とかの春希の話にも近づくのかなって気はするんですけど。そこはどうなのかと。
あああ:確かに。それがわかりやすくもうこれしかないっていうパターンだったらいいけど、選択肢が生まれちゃったときに。
つむじ:それはどっちも純愛になりうるのか、片方だけになるのか。
あああ:でも多分そこまで認識してどっちか選ぶで葛藤していれば、多分僕の言ってる意味の純愛はもう役目を終えていると思うんですよ、実は。
つむじ:純愛の必要性がないみたいな話?
あああ:どっちを選ぶかは、もう個人の感性、趣向の問題になってくる。
ふとん:え、じゃあ、我々はどうするんですか。例えば『動物化するポストモダン』で東浩紀も言ってたけど、エロゲをプレイするときにいろんなルートを選んでて、我々はその全てのルートを見てて、それぞれに毎回感情移入するわけだけど。
あああ:うん。
つむじ:そのうちどれが純愛なのか、あるいはどれも純愛ではないのかっていうのもちょっと面白い。
あああ:それは、どうなんだろうな。エロゲをやってるときの、どういう気持ちでエロゲをやってるのかっていう話にはなりますけどね。本当にただ単に消費するだけでやってるならあんまりそこ関わってこないかなって思うし。
ふとん:僕個人の態度としては、エロゲをプレイしてるときもそうだし、アニメを消費しているときもなんですけど、まず自分の生活があって、その生活とは別で作品を消費することで、冷笑からの離脱ではないけど希望を見出していく過程が大事だと思うので。自分的には、二股かけてるとか浮気してるとかそういう話はそもそも問題にはならなくて、そんな風に相対化されたものであってもいいと僕は思ってる。
あああ:キャラを単に愛好するっていうよりも、その作品で何を言いたいかを見ているからそうなるのかな?
つむじ:作品に純愛を見出すか、キャラクターのルートに見出すかみたいな。
あああ:多分僕がやろうとしていることも、キャラ1人に何か見出すというよりも、その作品全体から何か見えてくるものを取りだそうとしているのかもしれない。
つむじ:それでも何か複数の作品ってなりえますよね。
あああ:なりえますね。
つむじ:そうなったときはどうなる?純愛は複数あるみたいな感じになるのかな。
あああ:でもそのいろいろ取り出していく上で、作品に自分が従属してるわけじゃなくて、自分がまず主体としてある。
つむじ:好きな作品とかを演繹した結果としてそういうものが俺の中で純愛なんだみたいな。
あああ:そうですね。
ふとん:実際皆さん何が純愛だと思いますかって聞いてみると、こういう作品がいろいろ好きですって共通項を取り出してる感じがしましたね。
あああ:うん、まあ一般的な意味だと、一つのキャラだったりにすごい愛を注いでいるというパターンが純愛としては捉えられそうですけど、そういうのを前面に打ち出すのはちょっと違うかなと。
つむじ:ここでいう純愛ってのはそういうものではないですよね。もっと構造としてのみたいな。
ふとん:オタクが一人の二次元キャラか三次元アイドルにハマる。そういうのとは違う。
あああ:うん。そういうのを否定したいわけじゃないけど。
Q9 「サブカル論」における純愛の位置付けとは?
つむじ:ここまでの話とはあんまり関係ないんですけど、何か例えば僕は10年代がどうのこうのって話をしてて、青春ヘラは20年代の新しい文化みたいな感じで出てますけど、純愛っていうのは何かそういう何とか年代みたいな話に回収されるのかなとか。要はサブカル論として純愛ってあるのかなと。その辺どうですか。
あああ:僕が言っているようなことではあまりないんだけども、サブカル論としては、純愛ブームみたいなのがゼロ年代とかにあったという話はありますよね。
つむじ:それだとゼロ年代に回収されるかなと。
あああ:でも僕が考えていることだと、あんまり特定の世代とかそういうカルチャー論に含まれるかっていうとちょっと…。
つむじ:雑に言えば20年代の冷笑主義に対するカウンターみたいな。
あああ:立ち位置としてはそうかもしれないですね。
ふとん:僕は哲学のことはよく知らないんですけど、ポストモダン思想に対するカウンターみたいなことができていたらちょっといいかなって思ってました。結果的にそういうふうに評価されたら面白いし嬉しいなって。
つむじ:でもそんな感じはありますよね。一つのイデオロギーみたいなの出してって、相対化して冷笑するものを反論するみたいなところとしては多分、ポストモダン批判には近いかなって印象は感じました。
あああ:でも手法としては結局同じというか、こっちも純愛で相対化しようとしてるから。同じ土俵の上で揺り戻しをしているに過ぎないかもしれない。
Q10 今後について
つむじ:では最後に今後の展望でも。
あああ:(笑)いや僕はもうとりあえず同人誌を完成させたい。それ以降のことは、今のところあまり考えていないかな。
つむじ:(笑)
あああ:先のことを考える余裕がないという。
つむじ:うんうん。それでは本日はありがとうございました。
一同:ありがとうございました。
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