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「性欲」と「純愛」についての覚書──木之本桜で抜くことができるか?【『pluː vol.01』刊行記念リレー企画】

東大純愛同好会は、同人誌『pluː vol.01』の刊行を記念して、サークルメンバーによるブログリレーの企画を行っています。
本記事は、その9本目になります。
執筆者は、みかんばこ(同人誌の担当箇所:寄稿)です。


 「性欲」と「純愛」の境目は何だろう?というのも、一般的な印象として性欲は純愛に対置されるものと認識されているが、ある対象に性的魅力を抱くことはまったくの非純愛とも捉えづらい面がある──と思ってしまうのは甘えだろうか。

 「好きなキャラでは抜けない」という言説がある。アニメや漫画のキャラに対して心からの愛情を抱いたとき、性的な消費ができなくなるというものだ。この感覚は僕にも覚えがある。僕は『カードキャプターさくら』の主人公・木之本桜こそオタクコンテンツが産み出した至高の美少女だと心から崇拝しているが、彼女を”オカズ”に自慰行為に耽ることは到底容認できない。なぜならば、「性欲」とは醜い欲望であり、それを彼女にぶつけることは明確な加害行為だからだ。「性欲」がなぜ醜いか?それは対象の内面を無視し表層だけを愛そうとする欺瞞だからだ。俺のさくらに対する想いはそんな邪なものじゃない。誰のことも当たり前に愛せる優しさ、芯の通ったまっすぐな性格、喜怒哀楽を全身で表現できる愛嬌の良さ、そういった彼女の在り方にこそ真に心惹かれているのだ。

 嘘だ。僕が彼女の内面に惹かれているのと同じくらいには、僕は彼女に性的なまなざしを向けてしまっている。本編鑑賞中は細かい所作の作り込みから制作陣にいるだろうロリコンの息遣いを感じて興奮していたし、丹下桜の”媚びた”演技(*1)には脳髄が痺れるのを感じた。さくらの画像を検索しているときに不意に目に入ってしまう「さくらのカタチをした少女のようなナニカ」が劣情を煽ってくる画像やgifに対しても、強い拒絶反応と共に性的な衝動を覚えてしまった(*2)。何より、僕がさくらを二次元少女として評価しているのはその秀逸なキャラクターデザインに依るところが大きい。「萌え」とは、対象の本質から目を逸らしつつ愛でる行為として欺瞞さは「性欲」とさほど変わらないのではないか……。しかし、僕のさくらに対する愛がまがい物だとは思えない。思いたくない。さくらの中にある少女らしさを見出し、それに強く興奮してしまうのも、”さくら”という固有の存在に対する執着に他ならないからだ。何者よりもさくらが好きだと言える理由の一つには、どうしてもそれが含まれてしまうからだ。性欲だろうが耽美だろうが、人の感情なんて全部電気信号だ。美しいものを美しいと思うことと、エロいものをエロいと思うこと、そこにどう価値的な差異を付けられるだろうか。酸いも甘いも、美しきも醜きも全部含めて存在なのに、性的魅力だけを排除することなど、それこそ欺瞞ではないだろうか。

 そう理屈をこねたところで、やはり僕はさくらで”抜く”ことはできない。彼女に対し情欲は抱くくせに、その情欲を肯定しなきゃならないくせに、見て見ぬふりをせざるを得ないのだ。この問題は結局、僕の持つ「人間に性欲を向けてはならない」というあまりに幼稚な規範にある(*3)のだと思っている。僕はかれこれ23年生きてきたが、恋愛というものを経験したことがない。人から愛されたこともなければ、誰かを熱烈に愛せたこともない。当然、セックスの経験もない。小学校高学年から二次元のオタクコンテンツに耽溺し、性も愛も創作の中で語られる神話に過ぎなかった。そんな僕にとってナマモノの恋愛というものは、煌びやかだが恐ろしいものとして、しかしその実態は全くの未知で、畏怖の対象であった。加えて僕は僕のペニスを通して、性欲が如何に醜いものか、自分本位なものか、刹那的な情動であるかを知っている。性という概念は肥大するばかりで、僕の中では銃と同等の暴力になってしまった(*4)。だから、「人間に性欲を向けてはならない」という規範は、僕にとっては自明の理として、心の底に癒着してしまっているのだ。しかし一方で、僕はこれまでの周囲の人々との交流を通して、「人を傷つけないこと」が即ち「愛」である、というわけではないことはうっすらと気付いている。「傷つけた」「傷つけられた」ではないその先──あるものを「許す」「許さない」ことこそ、「愛」の本質に近いのではないか。「人をむやみに傷つけてはならない」というものは人を愛する以前に、人間であるための当たり前の規範だ。それでも、誰かとかかわり続ける限りふいに人を傷つけてしまうリスク、誰かに傷つけられるリスクは完全に排除できない。その時にいかに相手を「許す」か、「許してもらえる」かが、愛の存在証明の一つの解なのだと思う。僕は周りの友人、あるいは家族に対して、腹を立てることはあるし、怒ったり怒られたりもするけど、彼らは僕を仲間と扱ってくれるし、僕の彼らへの「好き」という気持ちが揺らぐことはない。こういった心の在り方を、僕は大切にしたいんだ。話が脱線したが、要は相手に性欲を向けるかどうかは「純愛」を否定する要素にはなりえないという話だ。性欲が相手に「許され」なかったとき、それは自分に愛される資格がなかったというだけで、自分から相手へ向けた愛が偽物だということにはならない。自分を愛さない相手を「許せ」なかったとき、確かにその愛は偽物だった(ただの自己愛か、物欲の一種に過ぎなかったか)と言えるのではないだろうか。

 “さくら”は存在しない。少なくとも今僕のいるこの次元には。さくらは僕を観測できないし、僕がいくら脳内でさくらを辱めたとしても、彼女はそれに対して「許す」ことも、「許さない」こともしないだろう。それがわかっていて僕がさくらで抜くことができないのは、さくらは僕の性欲を許さないだろうという身勝手な仮定を置いてしまっているから──つまりは、僕は彼女に「許し」を乞うている。さらに言えば、「愛されたがって」しまっているのだ。醜い自己愛だ。幼稚な我儘だ。愛とは与えるものであって、どこまでも一方通行で、求めるものじゃない。それは赤ん坊だけに許された特権だ。一方通行だからこそ、それが偶然にも互いに噛み合い、相互のものとなったときの輝きが生まれるんだろう。CLAMPはその尊さを説いていたのではなかったのか。僕からさくらへの愛は永遠に届くことはない。さくらが僕を見ることはない。ならば、せめて僕ができることは、僕が持つさくらへの想いを嘘偽りなく想い続けることではないのか。これはさくらという「人間」に対する恋慕とも、自己愛とも違う、ただ「僕のさくらへの愛」に示すべき誠実さだ。曲がりなりにも愛を謳うならば、通さねばならない筋がある。しかし、僕はこの発破に対して、沈黙することしかできない。それは、自分への裏切りだ。

 最後に「性欲」と「純愛」にまつわる傑作漫画を紹介して締めようと思う。

 

中野でいち『hなhとA子の呪い』

あらすじ
「性欲は真実の愛にとって障害となる」という信念を持つ針辻真の前に不思議な雰囲気をもつ幼女が現れる。A子と名乗った幼女は針辻にも性欲は存在すると嗤いながら指摘する。A子の言葉は「呪い」となり、針辻に彼自身の持つ「性欲」を自覚させていく。自分の中にある信念とは真逆の「汚らわしいもの」を見せ付けられ、次第に壊れていく針辻。A子の存在は針辻にしか認識できない。彼女は幽霊なのか、それとも針辻の抑圧された精神が見せる幻なのか…?

 主人公・針辻は性欲の介在しない「素朴で純粋な愛」を、ヒロイン・南雲はいつまでも色あせない「永遠の愛」を。それぞれの「純愛」を求め、しかしその不在と実現不可能性に絶望し、すれ違い、破滅へ進むラブストーリーだ。キーテーマは「自らが信じた”純愛”は、自らの手で裏切らざるを得ない」という悲哀だ。彼らはこの裏切りに対し真摯に向き合い、葛藤する。こうして自身の悪性に対しきちんと思い悩むことができる様が、僕には眩しく思えるのだ。それでも、彼らは結局、他人、そして自分からの「許し」がなければ、救われないのである。

 自分で自分を嫌悪しながら… 殺したいほど憎んでるくせに …最後の最後でそんな最悪な自分自身をさ?
 ──針辻君はそれでも愛しちゃってるんだね …気持ち悪いなぁ… 本当に気持ち悪いよ針辻君


*1 失礼な表現だが、実際僕はそう受け取ってしまった。当然彼女の演技はさくらの感情の繊細な機微に気を配ったこれ以上ない好演であることも付け加えておく。
*2 頭の中で「これは”さくら”ではない」と自分を納得させようとしても、それはどうしようもなく”さくら”に対する性的興奮なのである。
*3 これはあくまで僕の話であって、一般論を語りたいわけではないことは断っておきたい。
*4 もっとも僕には「他者から性欲を向けられたい」という願望はある。しかし、その願望でさえ自分自身の他者へ向けた性欲の発露だろう。


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