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朝本浩文さんの初期のDJ仕事に同行した話

記憶は曖昧だが、おそらく1996年後半、THE BOOM(現在は解散)の所属事務所でファンクラブ会報を編集していた頃の誰も知らない話。個人的には、編集者からデザイナーにシフトチェンジするちょうど境目の時期だった。

朝本浩文さんは90年代前半から、THE BOOMのサウンドプロデュース(代表作としては「月さえも眠る夜」「帰ろうかな」、MIYA&YAMI「神様の宝石でできた島」など)とツアーのサポートに関わっていて、当時目黒にあった事務所に時々顔を出していた。

ある日、朝本さんと親しい社内のスタッフから妙な頼まれごとがあった。曰く、朝本さんが六本木にあったクラブ「ヴェルファーレ」の地上と地下の中間のフロアにあるバーで、DJの仕事を引き受けることになった。月に1〜2回、誰か会社で夜に動ける人がいたら手伝ってほしい、と。そして、ちょうど暇そうだった自分に白羽の矢が立った、というわけだった(朝本さんとは、一度だけ会報の取材で面識があった)。

朝本浩文さんといえば、ぼくにとっては、80年代のレゲエ/ダブバンド、MUTE BEATの憧れのキーボーディストとして光り輝く存在だった。地元の静岡にツアーで“来静”した際も勿論足を運んだ。「AFTER THE RAIN」の、鋭利な刃物のような佇まいと叙情性が同居するメロディに惹かれ、毎日のように繰り返し聴いていた。そんな朝本さんと仕事で接して行動を共にするまでになるとは……その頃のまだ青かった自分に教えてあげたかった。

DJの手伝いと聞いて、いわゆるボーヤ的な仕事かもと心配していたが、朝本さん曰く「心配ない。CDJだし、仕事は全部一人でやれるから何もしなくていい。寂しいから誰かに側にいてほしいだけ(笑)」とのことだった。後年には三宿WEBなどで人気DJとして知られるようになった朝本さんだったが、DJとして人前で回す仕事はこの時がほとんど初めてという話だった。

本番当日。ぼくが会社で夜9時近くまで仕事をしていると、朝本さんが愛車のVOLVOのバンで迎えに来て、六本木まで一緒に向かう。現場のバーに入ると、店員から受け取ったビールを朝本さんに渡し、コップが空になる頃を見計らっておかわりを取りに行く。それだけの仕事。あとは3時間程度のDJの間、自分のぶんのビールも少し頂いて、ただのんびり過ごすだけ。金額は記憶にないが、申し訳なくなるくらいの謝礼もその度ごとに現金で頂いていたと思う。

現場は横長のフロアに2台のCDJとミキサーが設えられた小さなバーで、来客もヴェルファーレの地下の大バコで踊り疲れた人がちらほらと立ち寄る程度。DJ目当ての来客は皆無で、友人や音楽仲間が遊びに来たことも一度もなかったはず。むしろ朝本さん自身も積極的に身分を隠したがっていたようにみえた。

そんなDJ仕事でも引き受けることにしたのは、なんとなくの成り行きと(たぶんお金もそこそこ良かったのでは)、作曲・編曲家として、音楽マニアではない普通の人が音楽のどんな要素に反応するかを見るための「リサーチ」が目的だと、朝本さんは言っていた。

選曲も、当時の朝本さんが職業的に強い関心を持っていたはずの、ダブやトリップホップ、ジャングルなどマニアックな指向は前面に出さず、ダウンビート的な縛りは設けつつも、基本的に当時流行りのポップ・レゲエの曲を中心にかけていたようだった。完全に覆面DJだったこともあり、フロアは常に閑散としていた。たまに、下からやってきたサラリーマン風の客に当時ヒットしていたスノーやダイアナ・キングをリクエストされた時も、嫌な顔ひとつ見せずに対応していた。

一度だけはっきり覚えているのが、フロアが全く盛り上がらないのに業を煮やしたある夜、おもむろに財布から一万円札を出して「これでUAの『情熱』を買ってきて!」と頼まれたこと。夜10時過ぎ、六本木でCDを売っている店が思い浮かばず(六本木WAVEはまだあったが、たしか夜9時閉店だった)、パチンコ屋の景品コーナーまでくまなく探したにもかかわらず、結局手に入れることができなかった。戻ってお金を返し「ありませんでした」と報告すると、朝本さんも苦笑いしていた。

1996年当時の朝本さんは、MUTE BEATや第一期Ram Jam Worldなどでのフロントミュージシャンとしての活動に一旦区切りをつけ、サポートやプロデューサー、作曲・編曲家としてがむしゃらに働いていた頃だった。傍から見れば既に十分すぎるほどのキャリアを残しながらも、まだ個人としての確かな核を探し求めていた時期だったのかもしれないと思う。

そんな中でも、UAの「情熱」は朝本さんの高い音楽的指向とポップスとしての大衆性が見事に交わった、ヴェルファーレに遊びに来るような「普通の人」にも誇れる自信作だったのではないか。AUTO-MODやルースターズ、MUTE BEATなど、アンダーグラウンドな道を主に歩いてきた朝本さんだったが、自身の音楽表現に関しては、常に心のどこかでポップスと交わることを夢見ていた人だった気がする。

実際に、朝本さん自身も翌年の1997年頃を境に、ポップスのヒットメーカーとして引っ張りだこの状態になり(ぼくも編集からデザインに転職して多忙となり)、3〜4回、期間にして3か月くらい関わったところで、誰も知らないその仕事もいつの間にか消滅した。朝本さんもやがてTHE BOOMの仕事から離れていくことになり、以後の交流も自然と立ち消えていった。

送迎の車の中では(申し訳ないことに、帰りも親切に家の近くまで送っていただいた)、音楽的には何の接点もない素人同然のぼくにも垣根を持たず話しかけてくれて、朝本さんが当時関わっていた仕事のこと、よく聴く音楽、THE BOOMの話など、いろんな話題について話すことができた。「まりん(砂原良徳)からオタクっぽさを取り除いた人」というのがぼくの中での朝本さんの印象で、ふたりには僅かながら共通する要素が感じられる。博識なのに専門性に偏らず、常にフラットで、人との間に壁を作らない優しい人だった。

いまだに街で朝本さんのトレードマークだったドレッドヘアの人を見かけると、つい声をかけたくなってしまうのがよくない癖だ。

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