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公衆浴場の特異性とその存続に向けて

この前の土日に道後温泉へ旅行に行ってきた。21時を過ぎ、神の湯・たまの湯の休憩室には入れなくなったが、1階の温泉施設は楽しむことができた。20分ほど並んで券を買い、暖簾をくぐって脱衣所に入る。
私はそこで改めて、公衆浴場の特異性を知った。


そこでは全ての人が、急所をさらした状態で過ごしている。しかも、恥ずかしげもなく。彼らは衣服を一切身に纏わない、初期状態の装備であるにもかからわず、他者との距離は驚くほど近い。1mも間隔のない洗い場で自分の体を洗うと、横からシャワーの湯が飛んできて、顰め面をしながらも黙っている。

そこには衣服という自らを飾るものが存在しない。だから外見にとらわれない、ありのままの姿がそこにはある。でっぷりと膨れている会社員の腹からはデスクワークの日々と飲み会のビールが想像されるし、ご老体の痣だらけの肌からは積み上げてきた月日と長きにわたる肉体労働が想像される。それらが真実かどうかは重要なことではない。

加えて温泉の場合は特に、小学生に満たない子供から定年退職を迎えた高齢の者まで、さらに多種多様な国の人間が一堂に会することになる。その姿を見ると、自分より若い者であればその過去を想像して懐かしみ、自分より老いた者であればその未来を想像して不安と納得を抱く。異国のものであればその国の文化を感じる。
それを当たり前に誰もが、日々生きる日常の一つのコマとして、当たり前に享受している。


なんという文化だろうか。公衆浴場はただ入浴施設であるだけでなく、人間や社会や人生を知り自らを顧みる場所であるのだと、私は少し前から考えるようになったが、毎度行くたびにそのことが紛れもない事実だということを再確認する。私はこの文化としての公衆浴場がすごく好きだ。

ところが近年、銭湯の数は急激に減少の一途を辿っている。それでも公衆浴場の歴史を途切れさせてはならないと思う。公衆浴場に身を置くことは、私たちが豊かな生活を享受し、その後の毎日を送る上できっと必要になる。

変わりゆく時代の中で、公衆浴場はどうやって生き残っていけるだろうか。近頃若者に散見される問題行動の発生を防ぐこと、貴重品の窃盗トラブルを防ぐこと、防具を全く持たないからこその肉体面のトラブルを防ぐこと。公衆浴場側にもまだまだ解決すべきことがたくさんある。

私たちにできることは、ただ公衆浴場に出向き、それを楽しむことだ。公衆浴場に足を運ぶ私たちをそこで見て、何かを感じ取る人間が必ずいる。
友達とでもいい。恥ずかしいなら隠してもいい。温泉・銭湯に行ってみよう。


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うつろの雑談部屋
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