混浴の人 (ショートショート)
大学に入ってバイトを始めた僕は、貯めた金で長期休暇に旅行に行くようになった。卓球のサークルに所属してはいたが、ノリが合わず大学では一人でいることが多く、旅行も一人で計画した。一人だから何をしてもいい。そのフレキシブルさが次第に僕を旅行へ虜にさせていった。
3年の春休みだったと思う。一人旅そのものに意味を持たせるため、ひととおり「初めて」を経験しようという流れから、個性的な旅行を計画することが増えてきた時だった。その頃に見たビデオが原因で、ふと混浴の宿に泊まりたいと思った僕は、はやる気持ちで宿を予約した。
大学に入ってから彼女ができたことはなかった。思えば少しは下心があったのかもしれない。いや、そんなことはなかったはずだと、自分に言い聞かせたいとも思う。とにかく表向きには男女の関係は期待しないでいた。第一湯質の関係で白く浸かってしまえば首から下が見えないようになっている時点で、お色気のハプニングなどない。周りの人に隠れてこっそり、なんて展開も非現実的で馬鹿らしい。
とにかくこれは、ただのコミュニケーションの場なのだ。なぜか不安になる中で自分にそう言い聞かせた。
宿は思った以上にきれいだった。1人部屋なのにちゃんと座椅子とちゃぶ台が用意された和室だった。夕食を食べて風呂に向かうと、フロントで聞いた通り混浴になっている。といっても体を洗う場所は男女で左右に分かれており、中央に位置する露天風呂を共同で利用できるというものだった。右から扉を開けて露天風呂に入り、中央部分へと少しずつ歩いていくと、何人かの女性が入っているのが見えた。
当初の予定ではここで思い切って話しかけるつもりでいた。しかし現実は複数人で固まって入浴している女性ばかりで、ソロの人などいない。1対1であればある程度話ができる自信があるが、向こうが複数人になると話は変わってくる。
というか、初めから想像しておくべきだった。混浴に一人でやってくる男はいても、女性などいるはずがなかったのだ。あるいは少し遠くに見える一人に見える女性も、実はパートナーと来ていて、今から恐る恐る中央部分に向かうところに違いないのだ。
と、頭を抱えて反省していると左から声をかけられた。
「お兄さん一人で来たんですか?」
見ると、僕が幻と定義したはずの一人で来ている女性がそこにはいた。すっぴんのはずなのに透き通るような透明感を持ち、シミひとつない顔は美しく、少し染めて茶色がかったセミロングの髪は丁寧にまとめられている。誰が見ても可愛いと思うだろう。1人で来ているのが不思議なくらいだった。
挙動不審にならないように「ま、そうですね」と答えると、「え〜えっちですね」と早速からかわれた。
「そっちも一人じゃないですか」と反論すると「え、まそうですけど」とどぎまぎする彼女をみて考える。実は案外ピュアな子なんじゃないか。どうして1人できているのかはわからないが、別にあのビデオで見たような誘惑をしてくるような子ではないような直感があった。
そこからはしばらく温泉の中央部分の縁にもたれてお互いの身の上話をした。名前はサエさんと言った。地元は違ったがお互い大学が近く年齢も一緒で、何より初対面とは思えないほどしっかり受け答えをしてくれる彼女はこれまでの誰よりも話しやすく、気付いた時にはのぼせていた。そんな僕を見かねて「またどこかで」と言い残し、左の扉へと消えていくサエさん。本当にまたどこかで会えるだろうか。
今考えても不思議な体験だった。サエさんがいったいどういう腹づもりで僕と話をしてくれたのか、今でも疑問に思えてならない。あれから数年、いまだに彼女とは出会えていないが、いつかどこかで出会えたらお互いきっとあの時のことを思い出して、またたくさん話ができる気がする。
ずっとその時を待っている。
電話番号を聞かなかったことを悔やみ続けながら。
あなたの力で、僕が何かをなすかもしれません