「おもしろい」と「安心」は共存できるのか?
先週のオードリーANNを聴いていたら、子供が寝たがらないという文脈で若林さんの一言が耳に留まりました。
痺れるパンチライン。そこまで取り沙汰されるわけでもなく、放送後のハイライトにも載りませんでしたが個人的には一番刺さりました。
自分って楽しいことできているのかな。ちょっと不安になりました。
今日は久しぶりに大学に行きました。11月祭があったので鯨のはりはり鍋を無料でいただいたり、80年代の肩パッドバチバチのジャケットを譲り受けたり。タダより高いものはない、とは言いますが無料で何かもらえるというのは嬉しいもので、特にジャケットは気に入って居室に戻ってからも身に着けていました。やっぱり来てよかったな、と再確認。
メモに残している「やることリスト」を開くと、これからやりたいことが淡々と書かれています。企業のESに研究関連、趣味のこと。その中でも先輩に乗せられてやろうと決めた「筋トレしてムキムキになる」を見つけました。
「ムキムキになる方法」と検索をかけたら最低でも3ヶ月はかかるとのお告げが。先輩に成果を見せるには今から始めないと間に合わない。そう思うと居ても立ってもいられず、とりあえずプロテインの検索を始めました。
つい昨日までニートみたいな生活を続けていたのですが、ひとたびこの長期的な挑戦をしようと思い立ったら生活ができるようになりました。つい昨日まであれほど面倒に思っていた皿洗いも、風呂も、noteの記事制作もみるみるうちに進んでいきます。
ところが、ワイヤレスイヤホンをつけてキッチンに立ちながらふと「これって面白いのだろうか?」と我に帰ってしまいました。
この心のモヤモヤは、多分あれだ。おもしろくないんだ。
つまりどういうことかというと、何もせずにダラダラとYouTubeを見たり、ゲームに明け暮れていた時間は不安を煽るものではあったけれど、自分にとって確かにおもしろいものだったということです。裏を返せば、やりたくないちゃんとした生活というのは僕にとってはおもしろくないことになります。
なんらかの要因 (おそらくは長いことやっていなくて感覚を忘れているとかだと思います) が重なると、おもしろいことに全力を注ぎたい自分が顔を出してきます。するとゲームやYouTubeを時間を忘れて楽しめる代わりに、将来への漠然とした不安が自分を襲うという寸法です。今回のはその逆で、きちんとした真面目な行いをしていた反面で、おもしろくなさに気づいてしまったのでした。
考え直してみると、おもしろさと安心感というのは真逆の場所にあるような気さえします。毎年1組しか1,000万円を獲得できない、おもしろさの頂点を決めるM-1グランプリという大きな舞台に命を賭けて取り組む人間が、今年はなんと10,000組以上いる。もし成績を残せなかったら、それまでと同じように地下の劇場で特定のファンにネタを披露する時間が続くだけなのに、です。加えてお笑い芸人というのは下積み期間が特に長いことでも知られています。15年芸人を続けていても、準決勝にすら上がれずに終わってしまう芸人だってたくさんいます。
もちろん僕が研究に面白さを見出せていたのなら、将来の道も確保され両立ができたのかもしれません。でも僕にはそれができなかった。ただ論文を読み、実験室でフラスコと睨めっこするだけの生活が、どうしても好きになれなかった。こんなことを言ってしまっている時点で僕は研究室に向いていなかったのかもしれません。
「生まれてきたばっかりで楽しいことばっかりなんだろうな」
もう一度頭をよぎるこの言葉。もしかしたら僕が寝る間も惜しんでやっていたそれらこそが、人生を通して見つけた楽しいことだったのかもしれない。
不安はつきませんが、とりあえず内定を目指していきたい今日この頃です。