病気と自粛の深山幽谷
自分が病の床に伏せっているとき、どんな心持ちでいるかはとても大切。
同じく、今社会は病的状況。ほんの数ヶ月前からは想像もできなかったような、巨大な変化はまだまだ続くのでしょうが、そんな中でも心持ちが大切。
病は気から、とも申しますし、そんな社会情勢の中にあって、自分がどんな心持ちで生きるか、がとても大切に感じます。
そんなとき、つい”頭”で考えてしまいがち。
社会構造から人々の意識まで、すべてが変わりつつある中だからこそ、考えちゃうんですけど。しかも今を生きるみなさんは、たくさんの「知」や「情報」にまみれていますから、なおのこと情報をもとに、頭で考え悩んでしまうような気が致します。
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智恵あるものが病気になったときほどあさましくみっともないこ
とはない。なまじ智恵があるものだから、病床で来し方行く末の
ことを、際限もなく想い続けるのである。 ~中略~
いったい、修行の上においては、病中ほどよい環境はない。昔か
ら始祖方が深山に入って岩谷に身を寄せたのは、いっさいの世務
から遠ざかり道業純一に勤めるためである。考えてみれば、この
病中という境界はまさに深山であり山谷であろう。
『遠羅天釜 中巻』 白隠
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今のような時代の中に生きる私たち自身にそのまま言い換えることが出来るような、白隠禅師のことば。情報に振り回されてるうちは、病は際限なくひどくなるだけなのです。
むしろ、病だからこそ、ゆっくり横になれるし、修行に集中できる・・・。なら、自粛を強要される今だって、静かに自己鍛錬を重ねる良い時間かもしれん。
あたまでっかちがすぎると、上が重くてバランス崩し、こけてしまうですよ。きっと。こけたなら、寝てりゃいい。
自粛する中で、こそ正念工夫をその肚で。
本来の自分をみつめ、本来の仕事を考え、情報には溺れずに。