【21日目】クイズ化した日本型学校教育
ー執筆者 國井ー
最近は、大学院進学のために、英語の勉強に励んでいる。よく日本型の英語教育が役に立たないということを聞くが、あれはどうやら半分は本当のようだ。中学校から少なくとも6年は学んできたのだから、もう少し英語を喋れてもいいんじゃないか。半年ほど海外に放り出されていた方が、よっぽど喋れるようになるだろう。
こうした教育の現状にメスを入れる動きが最近盛り上がっている。センター試験は去年を持って廃止され、受験の評価に民間試験の導入の話も登場した(萩生田文科省が「身の丈にあった~」という発言で炎上し、見送りとなったが)。英語についていえば、従来のリーディング、リスニングに、ライティング、スピーキングを合わせた4技能を測ろうとした改革だったわけだ。グローバル化がそこかしこで謳われてるこの時代に、より包括的な能力が求められているということは間違いないだろう。そういえば最近、グローバル化という言葉が安売りされすぎて、妙なうさん臭さもあるが。
脱線したが、つまり、これまでの「勉強」を見直そす動きがあるわけだ。
僕は幼い頃から、父に「学校の成績は意味がない」ということを繰り返し言われて育ってた。そのため、父はテストの点数や学校の成績には一切興味がなかった。ぼくといえば、それを適当に聞き流して、大真面目に学校の勉強に取り組んできた。
だが、大学に入って3年がたち、ようやく父の言葉の真意がわかってきたような気がする。例えば高校時代の世界史の問題で「共産党宣言を著したのは誰か」という問題が出され、「マルクス」と答えることができたとして、それは世界史を学ぶ意義だろうか。
マルクスはヘーゲルの絶対精神・弁証法に始まる哲学を受け継ぎ、唯物的な世界史を、上部・下部構造に分解し、階級闘争の歴史と捉え、革命の必要性を唱えたのだ。
前者と後者の違いは、人物や事件を、時代の流れでとらえられているか、またその意義とは何かという理解がないという点である。この視点を失った時、勉強がクイズになってしまうのではないだろうか。
一生懸命に世界史のワードを覚える授業が、ポケモンの名前を全部覚えるという作業と質的に変わらないものであるということだ。
誤解を避けるためあえて言うが、ポケモンの名前を全部言えることが無駄だと言いたいわけではない。「学問」とは何か、この点を強調したい。
もちろん、世界史の基礎知識があることは、学問の知識へ接続するだろう。ただし、学校教育の目的はしばしば大学受験自体に設置されているような気がしてならない。
僕から言わせれば、高校の3年間を世界史のクイズに費やしてきたことを振り返ると、もう少し早い段階で踏み込んだ勉強をしたかったなとも思う。クイズをしているのなら、別に世界史じゃなくてもポケモンの名前を覚える授業があってもいいし、自分の趣味とか特技を伸ばせることに取り組むのもよさそうだ。
小中高でこのような教育がなされるから、大学受験でもこういう問題がでるのか。それとも、大学受験でこのような問題が出されるから、小中高でこういう教育をするのか。
少なくともここに対して改革の動きがあるのは、とても良いことだと思う。大学の入試が変われば、その前段階である小中高でもそれに応じた対応をとらないわけにはいかない。制度の抜本的な変化や、政治家の炎上などが、教育の改革自体にアレルギーにつながってしまうのならそれは残念なことだ。
改めて父の言葉を思い出せば、大学受験に使うという意味では「学校の勉強が意味がない」というのは言い過ぎな気もしなくはないが、概ね同意だ。大学受験を終えた僕が言うのは卑怯というものかもしれないが。
受験を控える学生たちは、気張りすぎずに「勉強」を頑張ってほしい。