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【34日目】ロックミュージシャンと起業家

ー執筆者 新井ー

 執筆をサボったせいで、國井に先に書かれてしまった。待ちくたびれてしまったならば、申し訳ない。まず断っておきたいが、別に僕は國井くんのnoteを見て彼をディズニーで「爆弾魔」と評したのではない。たまたま、僕は国井くんの纏う「爆弾魔」的ヴェールを直感的に察知していたのだろう。そうだとすると、恐ろしいことだ。自他ともに認める「爆弾魔」。彼は僕の家を知っている...

 さて、33日目のnoteは大変面白かった。実存の問題(特に國井本人の!)が書かれていた。あいにく、このnoteではそこまでのものを用意できないが、いずれ書こうと思う。今日は33日目のnoteの返答まで。

 國井の描いた図式には賛成。昔ならロックミュージシャンになりたかった若者は、今なら起業家になろうとしている。ともに「ビッグになろうとする」ことでは共通だが、前者は反体制、後者は体制補完的。ついでに現代における反体制的なものの消滅。その世界における「承認」の問題。(大変ざっくり言うならこういうことだろうか?)

 しかし國井の信奉しているブルーハーツすら、過去の産物に過ぎないのでは?全て資本に回収される世界で、何があるのだろう?(クラインの壺の問題!)

 國井が目指すのは、今日の「リベラル」が主張する「全ての差別はいけません」的なお気楽主義ではない。簡単に環境保護、多様性、人権保護を唱えるだけなら誰でも言える。しかし、人間は社会/言葉という象徴界からの命令に常に従う生物であり、その点で(言葉を用いている点で)差別は根源的にしてしまう。どこまで「われわれ」と認めるのか?日本人?ゲイ/レズ/バイ/クイア?動物?言葉を使う以上線引きをせざるを得ず、そこから排除される存在も不可避だ。それを引き受けた上で、「サブカルチャー」が乱立する世界。「開かれへの閉ざされ」ではなく「閉ざされへの開かれ」へ。

 繰り返すが、それすら全て資本に回収されるのであれば?いや現実にそうなのでは?(経験可能領域の偏在運動=資本主義、の問題!)そしてその極限にひろゆき的なるものの存在がいるのならば、我々はどうすればよいのか?ひろゆきなら我々の議論にこういうに違いない。「それってあなたの感想ですよね?」「データあります?」

 33日目のnoteで暫定的に國井が出した答えは「ブルーハーツへの回帰へ!」に見える。しかしそれでは終わらないはずだ。続きを待ちたい。

 

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