【25日目】空転する...
ー執筆者BBー
まず繰り返し問いたいのだが、「暗記」教育の何がまずいのか、まずはきちんと説明が欲しい。教育とはそもそもまずは「モノを覚える」ところから始まらないだろうか?英単語を、あるいは公式を、漢字を、覚えない人は、その後の発展的な内容も全くわからないだろう。その最低限のレベルを行なっているに過ぎないのだ。その点で、「複雑な英文法や、微分・積分、歴史などを学んだところで、何一つ直接的に役には立たない。」これはそうだろうか。少なくとも、受験勉強をせずに大学に入学していたら、今よりも数倍大学教育は大変であったのではないか。
日本型教育がクイズ化することで、階級のスライドを可能にしているという批判は、白昼の夢のごとく消え去る幻想である。「公教育が平等を生み出す」という残酷なレトリックの下で、ガラスの天井が生み出されている。Takaと私が同じ大学に通うのは、私には才能がなく、努力を怠ってきたからであり、Takaが秀才であり、勤勉であり、最低の受験料・入学金・授業料を準備できたからだ。学歴とは、特殊な例を除けば、親の年収が高い学生から順に振り分けれらるのである。ただ、その特殊例さえ、例外なく教育のロジックに従順であるのだ。
この箇所ももう少し説明して欲しい。なぜ階級スライドが、「白昼の夢のごとく消え去る幻想」なのか。なぜ「公教育が平等を生み出す」という「レトリックが残酷」なのか。上述の箇所からは理解できなかった。今一度詳細な説明を−面倒かもしれないが−してほしいところである。「教育のロジック」これは、「公教育が平等を生み出す」ということなのだろうか。それがなぜ「ガラスの天井」(これはおそらく大学のこと?)を生み出すのか。もし大学であるとすれば、高等教育である以上、それは天井と化さざるを得ないのではなか?私は、大学以前の教育は何も悪くないと感じるし、昨今の教育改革は空振りに終わると予測している。応急措置的に「プログラミング」や「英会話」、「ICT教育」を取り入れたところで、さして本当の底上げには意味がないだろう。だから、もし問題があるとすれば、恐らくそれは「大学」というシステムにある。もし学業における最大の喜びが−少なくとも僕はこれしかないのだが−「<世界>を知ること」にしかないとすれば、大学教育でそれを教えることが、少なくとも文系教育では、上手くいっていないのではないか。大学に入学するほとんどの生徒が、おそらく初めは、大学知に期待をしていたはずだ。しかし、それを有効に伝えることができている人々が少ないことに本当の問題があるのではないだろか。と、ここまで大学に期待をしたがやはりそれは不可能だろう。なぜなぜ國井が述べるところの「明確な答えを社会は用意できずにいる」のか、「空転する大学生」がいるのか。それはそもそも学問=大学の理論こそ消費社会化しているからだ。上野千鶴子は『<私>探しゲーム』でこう述べる。
一九七〇年、学園闘争が敗北して時代が翳り出した冬、都内の路上で過激派の女子学生が逮捕された。そのとき彼女は、くるぶしまで届くマキシュートにひざ上の超ミニスカート、という流行の最先端を行くファッションで、トンボめがねをかけるという、当時の典型的なキメ方をしていた。ファッショナブルな美人過激派女子学生、というのはそれだけで十分新聞ダネになる。事実、翌朝の各新聞は、路上逮捕のときの光景を、こぞって写真入りで報道した。その上、話題を呼んだのは、そのとき彼女が、こわきに『アンアン』を抱えていた、という事実だった。(中略)もちろんこことではカクメイに挺身する女がおしゃれなんて、という旧サヨクの禁欲倫理なぞ、はなから問題にならない。彼女たちのいでたちは、レボ(偵容察)に出るための擬装だった、という説もありうるがだからと言って彼女がファッションをたのしんでいなかった、ということにはならない。
この上野が述べた1970年代の、もはや「思想」と「ファッション」が等価になってしまったという衝撃は、我々2020年代の超消費社会化した我々にとっては、ある意味当たり前のように思える。しかし、当たり前だからこそ、それはもう一度問い直されなければならないだろう。我々の生きる社会では、「学問」も「ファッション」も「思想」も「サブカル」も、ありとあらゆるものが何もかも等価になっている。(ポストモダン)そのような社会で、なぜ勉強があらゆる生徒に必要になるのだろうか。ならば、「適当」で良いではないか。やりたい人は勝手にやればいいし、階層上昇したい生徒は勉強自体には興味がなくても、やればいいだろう。國井がどこの目線に立って今回の話題を出しているのかわからないため、明確に返答することができないのだが、ひとまず以上のようなことになるのだろうか...
また、國井は先のnoteでこう言う。「現状のシステムを前提として擁護する新井は、彼の基本スタンスとも矛盾しているようにも思う」、そうだろうか、その「基本スタンス」が何を指しているのかわからないが、個人的には矛盾していない。志望校への理由が嘘で何がいけないのだろう。入学後見つければいいではないか。第一、入学してもいない、実情のわからない組織へ本当に志望できるものなのか。就職の時も「きれいに飾った言葉を準備する」が、何がまずいのだろうか。我々が話す相手は社会人だ。ビジネスの場において、(あるいは政治の場において、)だからこれらを「交渉」の場と言いたいが、そこにおいて「何も着飾らないありのまま」の言葉で話すのは幾分かご法度だろう。そして「ありのまま」とはなんだ?「ありのまま」の自己などいない、とりあえずやってみるべきだ、という結論を我々は以前のnoteで出したのでは無かったのか?
あまりに中途半端だが、ここで終わりにする。