【33日目】ロックンロールの矛盾が生み出す多元性について

─執筆者 國井─

 私が先日、書きかけて辞めた投稿の中で、自らの夢を「爆弾魔」と比喩しました。これは現代思想に関する著書(つまりタイトルを覚えていない)の中に登場した、「レヴィストロースの展開がソシュールの言語学という時差式爆弾によって引き起こされた」という特徴的なセンテンスを引用した言葉です。もし存在を後追い的に把握するミネルヴァの梟が哲学であるのなら、時差式に炸裂する爆弾は時空を先行して存在が設置されるという意味で大きな魅力を持っていました。

 新井はおそらくこの未投稿作品を確認しており、私を「爆弾魔」と呼んだのでしょう。ただ、内容が伝わりきらず、過激思想の人間の象徴として爆弾魔という言葉が用いられています。以下、先日の投稿の引用です。

爆弾魔
リアルと空想の世界における峻別が付かなくなった人々が往々にして、自身の空想の世界を現実に合わせるために、最後に行き着くもの。テロリスト。國井は最近この兆候が見られる。

 しかし、意味のずれこそあれ、私にはリアルの世界をうまく生きていくだけの器用さと真面目さが欠いている節があり、現状変革的な気質があることは否めなません。興味深いことに、新井が誤用したとは言い難いのもまた事実なのです。

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 権力の不条理に抗する作品は、形こそ違えど、カフカからオーウェル、レディオヘッドに至るまで実践を伴いながら現実世界の地下水脈を絶えず流れ続け、表裏一体の関係として不断に存在してきました。闘争的な社会で生産される真理の中で、包括されない人々の声を汲みつくそうとする無限の水源ともいえるでしょう。左派的な表象を帯びるのはある種の必然ともいえるだろうし、私もそれに引き付けられた例に漏れない一人であることを認めなければいけません。比ゆ的な言葉が多くなりまして申し訳ございません。以下ではなるべく直接的な言葉を使用するようにします。

 こうした左派的な潮流がなぜ、社会の余りものにエンパワメントするのでしょうか。この問いが有する潜在的な射程の広さを十分に認識した上で改めて問いを設定したいと思います。つまりロックンロールに、しかもブルーハーツに的を絞り、左派的な説得力の源泉を探っていくというのが本日の目的となります。

 ブルーハーツはまだガラケー時代だった時の、私の姉の着信音でした。野太い声でリンダリンダを歌う声はマッチョイムズを想起させるものでした。そのため、高校時代に初めて彼らの動画を見た時、大変驚いたことを今でも記憶しています。歌っているその男(甲本ヒロト)は、枯れ木のような細い腕で、不気味な男性だったのです。かの有名な「青空」の映像を見た時に、トラウマ的な衝撃が走りました。ギラギラと見開いた目で虚空を睨む。口の周りを舌でペロペロとなめ、ふいに狂ったように頭や足、肩を振り出す。体で刻むリズムは、どこか挙動不審なのです。

 そこで、考察を深めるために「月の爆撃機」に登場する象徴的なテクストを取り上げようと思います。

ここから一歩も通さない
理屈も法律も通さない
誰の声も届かない
友達も恋人も入れない

歌詞の意味解釈事態が野暮であることは承知で、不明瞭な「ここ」とはどこなのかという疑問が浮かび上がってきます。カフカの「掟の門番」を想起される「ここ」には、他律的なあらゆるものが排除されています。法律も理屈も、友達も恋人も入れないというのなら、誰が通ることでできるのでしょうか。主語が、往来を許可する門番の側にあることを考慮すると、本来体制に向かうべく設置されるこの不条理が自己に反射していることがわかります。つまりあらゆるものを拒む不条理な門番として描かれるのは、裏を返した時に不条理として疎外された者たちの生き様を表すのです。

 元スマップ中居とダウンタウン松本の番組に出演した際に、彼が「夢を2つ持つべきではない」ということを口にしていました。つまり「ロックミュージシャンになって金持ちになりたい」という言説は良くないと。彼にとり、金持ちになりたいなら職業を特定する必要はなく、ロックミュージシャンになりたいなら金持ちを目指す必要もない。目的/手段の網の目の中で無限の成長を志向し、結果として空転を続けるウェーバー的な近代像、ニーチェやドストエフスキーの描いたニヒル、それに極めて接近していることが理解できます。彼曰く、彼のロックミュージシャンになる夢は、学生時代にバンドを始めた瞬間から叶い続けているというのです。彼がいくら偉大なロックミュージシャンであり、金を稼いでいようと、それはあくまで副次的にとどまり、資本の論理を逃れるのです。
サブカルチャーは市民権を得ることを目的としてはならないことを強く感じさせる対談でした。近代的諸価値に収斂しない場所にて彼の自己実現が存在したことこそが重要なのです。

 同番組にて彼は、ロックミュージックに「自らを元気づけるような歌詞なんて一つもなかった」ということも言及しています。これも非常に興味深いので、取り上げないわけにはいかないでしょう。「お前に未来はない」という歌詞さえあり、彼はそれを聞いて「今日も(本当は行きたくない)学校に行く元気をもらった」というのです。なぜ安直な励ましや慰めではなく、否定によってエンパワメントされたのでしょうか。仮にそんな言葉があるとすれば、それ自体が、現代的な規範の前提を共有した、いわば自らを排除する立場を肯定し、再生産する不幸な共犯関係に手を染めることになるからでしょう。この場合に否定は個人と、個人が生きる社会が明確に見据えられているのです。

 以上よりブルーハーツの輪郭を描くことができます。彼らは徹底的な拒否を貫徹することで、現代社会に矛盾し、結果として矛盾なく余りものの剥き出しの存在を肯定するのです。「矛盾なく」というのはつまり、弱者を弱者のまま、排除することで包括しようとする言説(安直な慰めや励まし)のことをここでは指しています。

 近年、東が左派が金儲けの道具に成り下がっている現状を指摘しています。彼の手がける「ゲンロン」もこの問題意識が発端となっているそうです。宮台の課題とする法従属的な人間像からの脱却も同様の側面を見て取ることができるでしょう。つまりロックンロールにおいて拒否されてきた現代社会との共犯関係が最近になると積極的に肯定され、時間空間的に価値観を収斂させようとしている兆候にあるということです。

 急激にYoutubeを席巻し、若者の間で認知度を高めるひろゆきの繰り出す「●●な人は馬鹿です」という言葉を、「お前に未来はない」と叫ぶロックミュージシャンと比較した時に、その本質が見えてくるはずです。

 ひろゆきは、現代社会における自らの成功体験をロールモデルとした司牧的な存在であり、彼の発する言説は新自由主義社会における生命の最適化を促す言葉です。「馬鹿」な人間は更生されるべきで、排除しているようで手招き、矛盾のない均質な空間に資するのです。

 一方で甲本ヒロトが聞き、歌ったロックミュージックは、社会の否定を根底に据えることで、本質的に矛盾し、結果として空間的な不均質性を生み出す試みであり続けるのです。この空間の不均質性という言葉はエリアーデから引用したものです。つまり、多元的な空間を生み出すという意味においては聖と俗の関係を現代社会に生み出し、ロックンロールに一種の宗教的な意義を与えることができるでしょう。

 宗教フォビアの現代人には、あまりいいイメージを持たれないかもしれません。つまり、やはりロックンロールなんて言っているやつにろくな奴はいないんだと。オウム真理教やISISなどに結び付けることで、前時代的、不合理、オカルトなどのイメージと宗教のイメージが直結する傾向があるのだと思います。ただ一方で考えなくてはならないのは、そのいずれもが現代的な事件として理解の枠組みを提供できるということなのです。この再帰的な宗教の側面を無視することはできません。再魔術化ともいえるようなこの現象と一緒くたに宗教を理解することは誤解を生むことになると思います。私たちは同時に、初詣には神社でお賽銭をして、おみくじを引いては一喜一憂するような現実を無視することもできないでしょう。

 ではその質的な違いとは何か。それこそが私の研究テーマであり、ブルーハーツをBGMに自らを鼓舞しているわけなのです。

 

 

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