No.0 「あまりもの」の新プロジェクト開幕にあたって
休止中であった我々のnoteは、新たなフェーズに入る。それは、主題を絞り、あるいは3人で一つのものを分有するというイメージによっている。
大学生とはどうあるべきなのか。さらに人生とはどうあるべきか。いや、寧ろそんな理想化された理念など幻想に過ぎないのかもしれない。存在するのはただのっぺりとしたグロテスクな日常だけだ。しかし、我々は、その答えをある一つの書物を分有することによって僅かにも導き出そうとすることを昨日決定した。
それは、ソーカル事件を経ても生き残ったフランス現代思想の最後の巨星G. ドゥルーズと精神分析医F. ガタリの奇書『アンチ=オイディプスー資本主義と分裂病』である。今後このnoteはーもちろん日々の雑記を書く可能性もあるがーそれとは別の企画で、我々3人が以上の書物を輪読する記録を残すものにもなるであろう。そしてそれは、まるで大航海の末砂浜に打ち上げられた小瓶の中の手紙のように、インターネットという大海へ、未来においてこの奇書のガイドを求める人々に向けて彷徨う手紙を差し出すプロジェクトに他ならない。
輪読にあたって、細かなルールを以下に記す。
・毎週金曜日に1人2節分投稿する。
・使用するテキストは河出文庫から出版されている『アンチ=オイディプスー資本主義と分裂病』(訳宇野邦一)。
・どこかの段階で(1章分なのか1節ごとなのか未定)3人で読書会を開催する
以上。
この奇書は、筆者の現段階の感覚では、完璧に理解させることを目的としていないように思える。それでもこの書は、何か我々を魅了するものがある。それに現状の答えを提出するとすれば、それは、難解な単語、煙を巻くような文体・文章内に、しばしばキラリと光る鉱石のように我々に訴えかけるものがあるからである。この書の輪読を企画したのは筆者だ。なぜこの書かの回答を、今述べるとすれば、これは3人で行えば3人それぞれの見つけてくる鉱石が異なると考えたからだ。それを持ち寄る。そのことによってブリコラージュ的に我々の生活に彩りをもたらすに違いない。
この書物を本気で取り組むものは(それはこの本から断片的に何かを学んだ者はと、という意味である)、誰もが皆分裂病的にならざるをえない。資本主義的エートス(それは精神分析で主題となる神経症の症状である!)に対して、我々はどこまでも散らばり、リゾーム状に、この現代社会という荒野を駆けていかなければならない。(故に未完のまま終了することすらある意味成功と言えるだろう。)
新井
愛と、その力とその絶望について私たちに語るのは、ソファの上に横たわった神経症患者なのではない。それは分裂者の無言の散歩であり、山々や星々におけるレンツの歩みであり、器官なき身体の上の強度における不動の旅なのである。
『アンチ=オイディプスー資本主義と分裂病(下)』 p. 145より