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ペギー・リー『ブラック・コーヒー』を聴いて(小説)


 彼はとても疲れていたので、勤め先と自宅のちょうど間に位置する、ファミレスに入った。席に着くが早いか、ウェイターにドリンクバーを注文して、メニューを開く。幾度となく来店したことのある、安価なファミレスだ。薄い紙の上、ところせましと並ぶ料理は、どれも見ただけで味を想像できてしまう。そのお決まりの店内にはいつも通り、聴き心地の良い、無害な音楽が流れている。
 別段食べたいものは無い。ファミレスは、彼の心の底で、密かに、しかし確実に溜まっていく日々の心労が、ある閾値を越えたときに、彼を呼び寄せるのだ。そして、二十代を終えんとする彼がこの場所へ向かう、その頻度は、日毎、増していく。彼はそのなすすべのない悲しさと情けなさを感じつつも、特に気に留めることもせず、無機質にメニューを眺めながら、四人席に一人で座る自分の姿を自嘲していた。


 そのとき、ふと耳に入ったピアノ、ウッドベース、鉄琴、そしてそれに続く歌声

Once I was young, yesterday perhaps
Danced with Jim and Pa and kissed some other chaps
Once I was young, but never was naive
I thought I had a trick or two up my imaginary sleeve
And now I know I was naive

——私だって若かったのよ……そうね…いつだったかしら…

彼の胸中には、翻訳するまでもなく、自然にその言葉と、彼女が抱いている感情が浮かび上がってきた。

——私は若かった頃、自分は大人だって信じていたわ…

サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドのような芳醇な弱音では決してないが、かといってヘレン・メリルの囁きでも、ブロッサム・ディアリーのお喋りでもない。
 彼はペギー・リーを知らなかったのだろうか?知っていたとしても、気だるげな「ブラック・コーヒー」だけを聴いて、単なるムード歌手だと片づけていたのだろうか?
 とにかく今の彼は、その歌声の主の、自然で美しい音楽と、それが美しいがゆえに窮まっていく、失われた時間へのどうしようもない、憧れと嘆きに、身動きがとれなくなった。

——そしていま、私は知ったの…あの時の私はなにも知らなかったということを…

 彼は自分が大学生だった頃を思い出していた。国立大学に見事合格した彼は、勉学に時間をかけるタイプではなかったから、部活に一生懸命取り組んだ。オーケストラでヴァイオリンを弾いて、演奏会でコンサートマスターを二度務めた。そして素敵なフルートを吹く彼女がいた。楽しかった。
 仕事に就いて四年に差し掛かった頃、向こうから別れを告げられた。彼女はこう言った。
「トオルって、楽しくなさそうに生きてるよね。」
人間は誰でも、楽しいときは楽しそうにしていなければならないのか?一瞬そう返そうかと思ったが、結局彼は、その時も自嘲した。
「まあ、楽しくはないからね。」

 小さい頃(例えば小学生)、毎日が楽しかった。そして歳を重ねるにつれ、もっと楽しいことが増えると思っていた。その思いは大学で音楽をしているときまで続いていた。しかし、いま、すべてが懐かしい。楽しかった日々も、未来への期待それ自体も…
 仕事を始めてからは、彼女に会うことが唯一の楽しみになっていった。大学で出会ったとき茶髪のロングヘア―だった彼女は、黒髪のボブになった。彼女は茶髪を気に入っていたが、徹は黒の方が好きだった。
 しかし徹は、感情が表に出ない。一緒にいて楽しいことも、昔よりもいまの方を綺麗に思うことも、いつも彼女を気にかけていることも、彼女には伝わらなかった。ヴァイオリンを弾かなくなった徹からは、感情を表現する習慣が消えていた。
 そうしているうちに、彼女には新たに好きな人が出来たのであった。
「トオルって、楽しくなさそうに生きてるよね。」
人間は誰でも、楽しいときは楽しそうにしていなければならないのか?みんなそうなのか?楽しそうにできない自分の、感じている楽しさは偽物なのか?

 ブルースのビート、

It ain't necessarily so, it ain't necessarily so
The things that you're liable to read in the Bible
It ain't necessarily so…

 ペギー・リー、本名ノーマ・デロリス・エグストロームは1936年、16歳の時に地元ノースダコタ州のラジオ番組でデビューした。そのお駄賃は、ラジオ番組のスポンサーであったレストランから、料理で支払われた。
 決して裕福ではなかったであろう七人兄妹の、末娘ノーマはまさしく「食べるため」にあちこちで歌いつづけた。彼女にとって音楽とは生きる糧であり、そして同時に、継母から冷たくされていた自分を肯定してくれるアイデンティティであったに違いない。
 その姿勢は、ベニー・グッドマン楽団への加入を経てソロデビューした後も変わらなかったであろう。ペギー・リーの歌声は、1940年代から50年代、すなわち戦時中の暗く困難な、そして戦後明るく駆け上がっていくアメリカに、朗らかに響いた。心地よく、自然で、軽薄とも言われる彼女の歌声は、そのような激動の時代のアメリカの聴衆に、少しでも音楽で癒しを届けたいという思い——そして、それこそ自らが与えられた使命なのだという思い——の賜物なのかもしれない。

——必ずしもそうじゃない、必ずしもそうじゃないわ
あなたが聖書を読んでいて、よくわからないところ、
それは必ずしも正しいわけじゃない、必ずしもそうじゃないわ…

 ペギー・リーがひとくさり歌った後、ジミー・ロウルズのピアノが滑る。軽快に進む音楽はしかし、すぐにもとのスロー・テンポに戻り、ブルージーな旋律を導く。
 このアルバムで共演しているジミー・ロウルズも、ベニー・グッドマンのバンドにいた。ペギー・リーが歌っているとき、ロウルズは伝統的なブルースの伴奏に徹する。気心の知れたアンサンブルは、お互いの担当範囲を決して邪魔することはなく、それぞれ自然で豊かな音楽を奏でていく。それは例えばビリー・ホリデイの、現状に対する激しい怒りや抗議といった世界とは無縁の、穏やかで平和な空間である。
 確かに、ジャズはアメリカ国内のアフリカン・アメリカンへの差別に対するプロテストとして発展していった側面がある。この見地に立てば、「穏やかな平和なジャズなどもってのほか」という意見になろう。
 しかし、私はそういった社会的な意見表明だけがジャズだというのは、あまりにも寂しいと思う。アフリカン・アメリカンがジャズで表現したかったものは、怒りや悲しみだけではなく、ここで繰り広げられるような、素直な楽しさもあったはずだ。ジミー・ロウルズの楽天的なピアノは、やはりペギー・リーによる次の詞句を導く。

——何でもそうとは限らない、何でもそうだとは限らないの…

 徹も、彼女とアンサンブルをしたことがあった。ヴィオラとチェロを加えて、部内の発表会でモーツァルトのフルート四重奏曲を演った。終った後、部員たちには、冷やかす連中もいたが、とても好評だったし、彼女も終演後とても満足気だった。しかし、徹には、彼女が上手に吹けていないこと、技術的な問題で音楽の流れを阻害している箇所が幾つかあったことが気になった。
 あれも、我慢せず伝えるべきだったのだろうか。楽しいときは楽しそうに、言いたいことがあるときは言う。そんな風に生きる方が普通なのだろうか。

 対して、歌声の主は最後までこう歌いかける。

——あなたが聖書を読んでいて、素直に納得できないところ、
それは必ずしも正しいとは限らない、決めつけることはないの…


演技臭く歌い上げるわけではない、やはり自然なその歌声は、妙な説得力を持って徹に響いた。

 そして、この曲が流れた。

I'm feeling mighty lonesome
Haven't slept a wink
I walk the floor and watch the door
And in between I drink
Black Coffee

徹が昔ジャズを聞こうと思って買った、ジャズボーカルのオムニバス盤で聞いたことのある曲だった。どうやら彼は、ようやく歌手の名前がわかったようだ。
「真夜中孤独に目が覚めて、部屋をさまようそのときに、口にするのはブラック・コーヒー…」
徹は昔聞いたときに何となく覚えていた訳詞を呟いてみた。夜中にコーヒーを飲んだら、また寝れなくなってしまうじゃないか、高校生の自分がそう思った記憶も蘇った。
 しかし、やはりいまの彼には、そんな疑問を思い浮かんだ自分を、馬鹿らしく、そして羨ましく思う。アンニュイなトランペットの合いの手は、過去に憧れる自分への嘲りをますます肯定させる。
 ふと、ブラックコーヒーを飲もうか、と彼は思い立った。ペギー・リーの「ブラック・コーヒー」を聴いてブラック・コーヒーを飲む… なんと単純で愚直な行為!しかしいまの彼は、自分に対してもっと愚かな行為を見せ、もっと自嘲したくなっていた。頽廃的な音楽と相俟って、自嘲行為がカタルシスを生むまでになっていた。

Black coffee
Feelin' low as the ground
It's driving me crazy just waiting for my baby
To maybe come around

ブラック・コーヒー
気分はどん底
輝いていたあの日々がまた来ないかと
来るわけないのに夢中で待ってる

 ドリンクバーがやかましく豆を挽いて、コーヒーが抽出される。しかしここのファミレスのコーヒーは…あまりにも、あまりにも、苦くて不味いコーヒーだった。彼もそれは知っていたはずだったが、音楽の醸し出す雰囲気に酔っ払って、忘れてしまっていた。
 彼はその不味いコーヒーを口に含んですぐ、反射的に吐き出してしまった。
 そして、このファミレスのコーヒーは、本当に苦くて不味いだけだということを忘れていた自分を、彼は笑った。
 


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