いつまでも自分が「表現を与えられる側」であり続けられる喜びとの向き合い

尊敬するオタクの先輩がこんなこと書いてました。

「輝きたい」とかいう欲望が私にはあまり理解できない(だからアイドルアニメとか苦手なんですね。あれ「オタクの性欲の対象になりたい」の間違いじゃないんですかね)ので、ああこう考える人もいるんだなあ、こういう貪欲な人が偉くなっていくんだなあ、とか考えながら読みました。敬意の欠片もなくてすみません。

そんなことより、10年20年経っても「以前はオタクだったけどもう熱を失ってオタクではないただの陰キャ」ではなくて「オタク」であり続けられるのは素晴らしいことだと思いませんか?

最近思うんですよね、実は自分ってアニメ楽しめる天才なんじゃないかって。
以前はアニメなんて受動的メディアを楽しんでる自分はただの無能力者だなあとか思ってはいたんですけどね?でも周り見回してみると、毎期毎期「今期は不作だ」だの「昔のアニメは面白かった」だの「もうアニメは見ない」だの言ってる人多いじゃないですか。同年代の人も結婚してるしてないに関わらずもうアニメやらなんやら見てない人多いじゃないですか。
そうなってくると、未だにアニメ楽しめてる自分って、毎期毎期見たいもの探してBlu-ray買ってる自分って、案外すごいんじゃないかって。

そろそろ飽きが来てもいい頃合いじゃないかと思いつつも、全くそんなことはなく、むしろアニメって自分が見始めた08年頃に比べて面白くなってますね。旧作見るのも楽しいには楽しいけど、今のほうがまあ映像も面白いし会話も楽しいしお話も納得感のあるものが増えてます。ダメになったのはせいぜい写真トレス状態のものが散見される美術だけです。ここ2,3年はたつきとか100ワニみたいな「しょぼい作品をオタクが無理矢理褒めるムーヴ」が少ないのも好印象ですね。

最近アニメ見なくなった人の意見を見ると「同じ話ばかりでつまらん」みたいなことを言いますね。それは話を捉える解像度の問題で、同じような設定で同じような展開を使っていても味付けがちょっと変わるだけで全く別の生き物になるんだなあという変化を楽しめるようになってくるわけです。見れば見るほど飽きるんじゃないんです。見れば見るほど深まるんです。
「あっ、あの作品はこういう展開でクソやったけど、同じ展開でもこういうキャラがやると印象がまるで違うんやな」とまあこういう感じのものが捉えられるようになってくるから、作品鑑賞の経験値は積めば積むほど楽しくなります。

他にも自分は受動的趣味ばっかなんですね。いや登山やスキーもやってますけども、野球観戦とサッカー観戦がメチャクチャ好きだし。受動的趣味もここまで長々と続けてあれこれ色んなとこ行ってると能動的と言っても傲慢ではないのではないかと思えてきました。
ただ観戦趣味には敗北というどうしようもないクソ体験がある中において、アニメはたいていキービジュとPVとスタッフを見て良さげなのを選べばほぼ確実に勝利できるので安定します。サッカーなどは開幕11試合無勝利(約2〜3ヶ月)などということがあるとサッカー関連の情報を得ること自体を放棄したくなってくるのですが、アニメはだいたい常に神回を提供し、進化し続けてくれています。飽きません。全く飽きません。

私が飽きずにアニメを見ている間に周囲がどんどん脱落していくわけですが、自分はこれを肯定的に捉えています。だって楽しいんだもん。で、周りにそういう人はほとんどいないので、アニメを楽しみ続けられる自分はすごい、俺ってアニメを楽しむ天才!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?