橘家圓太郎と円太郎バス【東京のりもの散歩~いちょうマークの車窓から26】
1923(大正12)年9月1日、南関東を震源とするマグニチュード7.9(諸説あり)、震度6の揺れが東京および関東近県を襲った。その被害は家屋の全壊10万9千戸、死者・行方不明者は10万5千人に及んだ。言わずと知れた関東大震災である。交通局の前身である東京市電気局は市電(路面電車)の車輛を800両弱焼失し、軌道や営業所の被害も甚大だった。
市電が復旧するまでの代替手段として局は乗合自動車の事業免許を取得。アメリカのフォード社から貨物トラックフォードTT型800台を緊急輸入して客席11席のバスに改造した。市電の復旧作業と並行しつつ電車の乗務員から志望者1千人を募りバスの教習を行い、翌年1月18日、巣鴨~東京駅、中渋谷~東京駅の2路線を皮切りに東京市営乗合自動車(市バス)を開業。日本初の公営乗合自動車が誕生した。
時代は大正から明治にさかのぼる。明治初期に東京~横浜間で日本初の乗合馬車が開業し、その後多くの業者が参入した。1880(明治13)年制定の「馬車取締規則」に通行人への声掛けなどの安全対策が盛り込まれ、その後注意喚起にラッパを使用せよという通達があった。落語家の四代目橘家圓太郎はここに着目し、高座でラッパ(通行人に注意喚起するための真鍮製の小型のラッパ)を吹きながら乗合馬車の御者の口上をまねする事で大衆の人気をさらった。最盛期には1日に10軒もの寄席を回っていたというのだから、大スターである。いつしか東京市内の乗合馬車は「円太郎馬車」と呼ばれるようになった。
2020年、文化庁の文化審議会答申を受け、交通局の所有するフォードTT型が国の重要文化財に指定された。文化庁のホームページで公開されている答申の解説文書には次の通り書かれている。「本車輛は我が国最初の公営乗合自動車として現存する最古の車輛であり、円太郎バス唯一の伝存車輛である。本車輛は、乗合自動車が都市公共交通手段として日本各地において活躍していく端緒となった時期の稀有な伝存車輛であり、交通史上、社会史上に貴重である」
落語家の圓太郎の影響により明治時代に「円太郎馬車」と呼ばれた乗合馬車が交通機関として衰退した後、形の似たフォードTT型が大正時代に「円太郎バス」として愛称が残ったのである。なお圓太郎はラッパ芸を18年続け、1898(明治31)年に亡くなっている。
都政新報 2021年8月3日付 都政新報社の許可を得て掲載
【参考資料】
・明治の一発屋芸人たち━━珍芸四天王と民衆世界 長嶺重敏・著 (勉誠出版 2020)
・そうだったのか、都バス 懐かしの車両から最新システムまで 加藤佳一・著(交通新聞社選書 2016)
・「円太郎バス うごく影絵」公開 | 東京都交通局https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/bus/2021/bus_i_202103299731_h.html