思いがけずケアされる
2024/11/9-10兵庫県視察感想
私は家庭医として研鑽を積む中で、診察室を訪れる患者の身体的症状に通ずる心理社会的な問題にどのようにアプローチしたらよいか、と問い続けている。
そんな中で、短時間の医療面接や、投薬では解決できない健康問題に影響を与える心理社会的な要因にアプローチをする方法として、「社会的処方」を知った時、ぜひ取り組みたいと感じた。当初は私は患者を紹介するリンクワーカーも、ちいき資源・コミュニティもよく知らなかった。
しかし、現在の病院で働く中で、ともに社会的処方を検討・実践する同僚やリンクワーカーとつながることができた。職場のある周辺地域をアウトリーチをしていく中で
少しずつちいき資源やコミュニティと知り合うこともできた。それでもまだ「社会的処方」の実践のための補助線が見えず、かかりつけ医である私と患者との間で課題解決型支援と伴走型支援をmixした家庭医療継続外来を鋭意行っている最中である。
言わずもがな病気の治療は病院で継続して行うことは重要である。一方で、
心理社会的に傷つきやすさを抱えるその患者がいち家庭医である私という限られた医療資源との細い繋がりでしか日常的にケアされていないたしたら、診察室以外の、暮らしの中でも誰かにケアされてほしいという思いが私の中で強まっている。
また、いつまでも自分だけが患者へケアできない以上、私の代わりにその患者がケアされる状況を作り出すことは、家庭医としての責任とも考えている。
以上から、やはり今の私が取り組みたいアプローチは、病院⇔コミュニティ間を行き来する伴走型支援のスイッチを押すこと=「社会的処方」を始めることであり、そのために、私の手の届く範囲のコミュニティに「社会的処方」の実践のための補助線を引くことである。
そのためには、もっと人が集い繋がり、ケアし合うコミュニティについて知る必要がある。そう考えたことが、私が先進的なコミュニティを知ること、素敵な実践家や活動を視察する動機であった。
以下をまとめてると、
正しいことをしようとか、人と繋がらないといけない、ではなくまずは地域の人々が自分のスキに忠実に行動している生活の動線上に思いがけず親切にされる・する人同士の交流が生まれる「仕掛けづくり」をすることが重要である、となる。以下詳細となる。
---
「本と暮らしのあるところ だいかい文庫」への視察では、
商店街を歩く私と後輩に、地元の高齢男性が声をかけてくださり、思いがけずちいき案内をしてくださるところから始まった。集合時間には多少遅れたかもしれないが、男性の地元愛とホスピタリティを強く感じ心温まった。
だいかい文庫には、選書センスが自分に突き刺さる「ケアや暮らし」にまつわる多くの本があり、そして過度に構えず、「そこにいることはわかっていますよ」とちょうどよい塩梅の雰囲気でスタッフの皆さんが居た。想像よりコンパクトだった空間は、多くの本だけでなく、見えない思いやりでとても密ない空間だった。本やおしゃれな場所が好きな人がいて、そしてスタッフとゲストがともにその居場所を楽しんでいたようだった。具体的な学びとしては、代表の守本さんから話を伺い、重層的支援体制整備事業、特に相談支援や参加支援の文脈において「社会的処方」を理解する必要があることが明確に分かった。
やはり重層的支援体制整備事業なしに、病院からの狭義の「社会的処方」だけに取り組みたいと考えるのは、地域包括ケアシステムにおいて訪問診療だけに力を入れるくらいアンバランスなことだと理解した。
私の解釈としてのだいかい文庫は、絶妙な間合いを持つスタッフや心の動きを刺激する選りすぐりの本が仕掛けとなって、本そのものやその空間の居心地のへの「スキ」で集まった人が、他のゲストとついつい本の感想を話したり、本の話題に沿ってについて対話する、もしくはその対話を目に、耳にする中で癒しを得たり、自分自身の心のうちに気づいたり、親切にされたり感謝される経験をし、そしてまた誰かにそれを返していくという流れが生まれているんじゃないかと感じた。
肝は最初の「楽しそう」「おもしろそう」「おしゃれだな」で入った空間で、
思いがけず自分や本を好きそうな似たような誰かが気にかけてもらえるということ。
最高のスキから始まる受動体験が、自己発見を通じた回復と主体化のスタートとなる。
「はっぴーの家 ろっけん」への視察では、「ギリギリ安心感のあるカオス」の範囲が登場人物が増えるとともに拡大してきたのだろうと感じた。きっとこれからもそのカオスさは増すのだろうけれども、きっと今もこれからも出入りし続ける人たちがそっと伴走してくれるので、新参者も受け入れられるのだろうと思った。
そもそも、サービス付き高齢者向け住宅というマンションの廊下、エレベーターをぶたが歩き回って、エントランスでは競馬に興じるおじさんたちがたばこを吸って、視察者が昼間からビールを飲んでいる空間では、多少突拍子のないことをやっても、「それは今までに誰かがやったこと」だから安心していいのだろうし、新しいことをやったらみなさん面白がってくれそうだった。関西人としては面白がってもらえることを、やりたいと思うよなと感心した。
高齢者や、LGBTQなどとラベリングする前に、友達になれる場所でもあった。
具体的な学びとしては、はっぴーの家ろっけんのリビングが、まちの人にとっても「もう1つのリビング」であるという感覚が新鮮だった。マンションの人のためのものでなく、そのちいきにおける共通財産としてのはっぴーの家のリビング、それは「コワーキングスペース」ならぬ「コ‐リビング」だった。しかも、エントロピーが増大しているので、もう何をしても許されそうで、それは「自分という存在が許される」ようで嬉しかった。
きっとしょうもないことをする日もあるし、どうしようもない人もいるかもしれない。でも、みんなそれぞれがもつ自分のどうしようもなさを他の人に見せられる場所であって、ケアしに行く必要もないし、ボランティアしにいく必要もないし、ぐーたらしに行けば誰かが居て、声をかけてくれるかもしれない。背伸びしないどうしようもない自分でも誰かといれば「晴れの場」にいる気がしてうれしくなる場所でした。かといって、はっぴーの家に入りびたりになるだけでなく、そこから外に連れ出されてしまう、そんな仕掛けを代表の首藤さんたちがしていて、ちいきの様々な活動への参加支援まで促していて圧巻であった。
「株式会社ここにある」の藤本遼さんとも
お話をさせていただいた。
藤本さんは、私の出身地の先輩。そのご活動は存じていたが、私自身尼崎市とは疎遠となっておりこれまで大きな関りがなかった。でも一番心に残っているのは、市民がサービスのお客さん、モノの消費者になっているだけで自分たちが当事者として何かを作ったり発信することがなくなっているというお話だった。
お金さえ支払えるお客・消費者は、ボタン1つで家にモノが届き、量産された質の高い品物が日本のどこでも手に入るため、ひと手間かけて、少しめんどくさい、他人との交流する必要性が感じられない。「ひと手間かけること」や「わざわざ他人と交流すること」は、守本さんや首藤さんのお話を聞いたり活動を体感する中で重要だとひしひしと感じたことである。
自分と相手のスキを知り、その思いを語り合ったり、モノを交換し合う場の中で、相手から気にかけてもらえて自分が嬉しい、だから相手にも返したくなる、ただの物々交換ではなく思いやりが少し付加された交換・交流ができる場を作るためには、
まずお客さんになることをやめて、スキを求めて探し出す「探索行動に出るオタク」になること、オタクを包み込む居場所がともに必要なんだと実感した。