うとQ世話し 与太話
2021/2/3-2
(うとQ世話し 与太話)
昔、自分が未だ新入社員の頃、親父がネクタイを何本か「それを使えと」複数回にわたって自分に差し出して来ました。
ところがそれが又「とんでもなく素晴らしい柄」で。
例えば虎と大蛇が青竹を挟んで絡み合った絵柄とかピンクと赤いバラが黒地に咲き誇っている奴とかで。
あまりのセンスの「良さ」に、受け取りはしたものの、締めないでほったらかしにしておくと親父が
「せっかくやったのに、なんでせぇへんねぇや?あん?」
と言ってきます。
「いくらなんでもこれじゃぁ、のぅ。
わしは元々がヤクザみたいな御面相なのに、こんなんしよったら、警察に公序良俗違反でしょっぴかれてまぅで」
「これはわしが大変お世話になっておる御方からの賜り物じゃ。悪かろぅ筈がない。己のセンスが外れとぅのや」
せやったら、おとんが、自分で締めて出社したら良かろうが、と余程言い返したかったのですが、何となく板挟み状態であろう事も察せられたので、黙って引き下がりました。
で、こんなエピソードを思い出しながら二つの言葉が浮かんできました。
一つは「義理人情」の「義理」
と、今ひとつは最近はやりの
「忖度」
で、この場合は頼まれもしないのに、慮って(おもんぱかって)する「忖度」ではなく、日頃のお世話に、返すに返せない国語辞典的な使い方での「義理」の方だろうなとはおもったのですが、
元々「義理人情」の「義」と「理」はアタマの働きで「情」はこころ「人」が「身体」で、それが「人」(身体)という字を天秤の軸として、左右にバランス良く成り立っているのが「義理人情」の科学的にも、理にかなった本当の意味で、それを三方満遍なく(偏りなく)うまく回すエコサイクルこそが、人が元気に生きられる秘訣だと思っている自分からすると、
この場合の義理とは「された丸投げの処理に困った時に起きる感情」または「さらなる、その又先への丸投げをした時に生じる、バツの悪さ」のことなのかなと、改めて思った次第でございます。
ほんまに、本日はどうでも良いお話で。
失礼つかまつります、るぅ。